合戦の状況
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 04:57 UTC 版)
一時の劣勢を挽回して畿内をほぼ制圧した三好軍の残る敵は、河内高屋城に拠る氏綱・遊佐連合軍であった。7月21日、三好軍は河内十七箇所の榎並城に集結し、各隊が高屋城を城撃をするため南下していった。 晴元・三好方の主な武将 三好政長 三好政勝 三好長慶 香西元成 三好実休 安宅冬康 松浦興信 畠山尚誠 この行動を察知した氏綱・遊佐連合軍は戦闘準備を整えて高屋城を立つと、正覚寺城を経て北上していった。 氏綱・遊佐連合軍 遊佐長教 細川頼貞(四郎) 畠山政国 そして舎利寺周辺で両軍が遭遇激突した。応仁の乱以降、鉄砲伝来するまでの間の畿内最大といわれる舎利寺の戦いが開始される。この時の戦闘の様子をは次のようにと記載されている。「爰にて行合、両方矢戦を止メ、相カヽリニ懸ル、三好ヨリ畠山総州ト松浦肥前守ノ手一番二進ミ、互ニヤリ合ノ数刻ノ戦ナリ。両方ノ鑓数百本ノセリ合有。近代無双ノ大ゼリ合ナリ。河内ノ衆三木午ノ助ヲ初トシテ、究竟ノ兵四百人打死シケレバ、忽敗北シテ落行ケル。四国衆モ篠原雅楽助、安宅左京亮初テ五十余人打レニケル。今日合戦ハ松浦衆ト畠山総州衆ノ惣勝也トゾアツカイケル」(『足利季世紀』)。矢戦から始まって総懸かりに移り、畠山尚誠と松浦興信の手勢が一番に進み、数時間の槍合わせは大合戦であったが、遊佐軍は400人が討ち死にして敗走、ただ四国勢も50名以上が討ち取られ、この日の戦は松浦勢と畠山尚誠勢の手柄であったとある。 また「両方二千人計討死」(『二条寺主家記抜粋』)との記載があり、舎利寺の戦いの戦死者は最終的には二千人前後に上ったのではないかと思われる。 この舎利寺の戦いは三好長慶の軍事力、才覚が畿内に知れ渡った。
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