合戦の背景とは? わかりやすく解説

合戦の背景

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 14:06 UTC 版)

川中島の戦い」の記事における「合戦の背景」の解説

天文21年1552年)、北条氏康敗れた関東管領上杉憲政越後国逃れ景虎上杉氏家督関東管領職の譲渡申し入れていた。永禄2年1559年)、景虎関東管領就任許しを得るため、二度目の上洛を果たした景虎将軍足利義輝拝謁し関東管領就任正式に許された。永禄3年1560年)、大義名分得た景虎関東出陣関東諸大名多く景虎付き、その軍勢10万膨れ上がった北条氏康は、決戦避けて小田原城神奈川県小田原市)に籠城した。永禄4年1561年3月景虎小田原城包囲するが、守り堅く攻めあぐねた小田原城の戦い)。 永禄4年1561年4月武田信玄割ヶ嶽城(長野県上水内郡信濃町)を攻め落としたその際武田信玄信濃侵攻参謀と言われ原虎胤負傷した。これに代わって、山本勘助参謀になる。 北条氏康は、同盟者武田信玄武田晴信永禄2年出家して改名)に援助要請し信玄はこれに応えて北信濃侵攻川中島海津城長野県長野市松代町)を築き景虎背後脅かした。やがて関東諸将一部勝手に撤兵するに及んで景虎小田原城包囲解いた景虎は、相模国鎌倉鶴岡八幡宮で、上杉家家督相続関東管領就任儀式行い、名を上杉政虎改め越後国引き揚げた。 関東制圧目指す政虎にとって、背後信越国境固めることは急務であった。そのため、武田氏前進拠点である海津城攻略して、武田軍を叩く必要があった。同年8月、政虎は越後国発向善光寺経由して妻女山布陣した。これに対す武田方は茶臼山雨宮の渡し塩崎城、山布施城等諸説がある)に対陣する。

※この「合戦の背景」の解説は、「川中島の戦い」の解説の一部です。
「合戦の背景」を含む「川中島の戦い」の記事については、「川中島の戦い」の概要を参照ください。

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