信濃国の室町時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 信濃国の室町時代の意味・解説 

信濃国の室町時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 15:41 UTC 版)

小笠原氏」の記事における「信濃国の室町時代」の解説

小笠原貞宗鎌倉幕府反旗を翻した足利尊氏従い鎌倉の戦い出陣し建武元年1334年)、建武政権より信濃守および信濃守護に任じられ筑摩郡井川館築いた室町時代にも小笠原一族幕府奉公衆となって活躍し南北朝時代には小笠原政長貞宗の子)は北朝属したものの伊那谷北条時行拠点であり、後に諏訪氏仁科氏等の南朝拠点となった対して貞宗の跡を継いだ小笠原長基若年であったため、代わりに上杉氏斯波氏信濃守護を任じられた。長基正平10年/文和4年1355年4月桔梗ヶ原の戦い南朝宗良親王破り吉野駆逐するなど戦功挙げ信濃守護に任じられた。 しかし、応永7年1400年)に足利義満仕えばさらであった小笠原長秀長基次男)が信濃国守護任じられ入国すると、村上氏仁科氏諏訪氏滋野氏高梨氏井上氏など、信濃国人の大半反発して大塔合戦起こし、これに大敗した長秀は京都逐電し守護職罷免された。信濃守護職は斯波氏経て室町幕府料国直接統治)とされたが、信濃小笠原氏家督継いだ長秀の弟の小笠原政康応永32年1425年)に信濃守護職に任命されてからは信濃小笠原氏守護職地位安定化した。 信濃小笠原氏が度々守護職外され理由としては、信濃小笠原氏統治能力問題だけではなく信濃室町幕府勢力圏鎌倉府管轄地域境目にあり、その管轄幕府鎌倉府の間で変更されたり、自立性の強い信濃国人が守護による統治嫌って幕府直接統治望んだことなどがあげられる。それが、大塔合戦背景一つでもあり、また信濃小笠原氏上杉氏斯波氏守護在任時代には反守護信濃国人側に立っている。だが、応永年間末期室町幕府鎌倉府対立の構図明確になる信濃幕府側の最前線として位置づけ固まったこと、信濃国人が幕府意向に必ずしも忠実ではないことが明らかになったことで信濃有数勢力持って幕府比較忠実な小笠原氏守護として鎌倉府対峙させ、幕府がそれを支援する方針固まってきたと考えられている。もっとも、小笠原氏守護職復帰後も村上氏諏訪氏信濃国人との間に封建的な主従関係確立できたわけではなく守護権力弱体化した状態が続くことになる。

※この「信濃国の室町時代」の解説は、「小笠原氏」の解説の一部です。
「信濃国の室町時代」を含む「小笠原氏」の記事については、「小笠原氏」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「信濃国の室町時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「信濃国の室町時代」の関連用語

信濃国の室町時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



信濃国の室町時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの小笠原氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS