信濃国の室町時代
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小笠原貞宗は鎌倉幕府に反旗を翻した足利尊氏に従い鎌倉の戦いに出陣し、建武元年(1334年)、建武政権より信濃守および信濃守護に任じられ、筑摩郡に井川館を築いた。 室町時代にも小笠原一族は幕府の奉公衆等となって活躍し、南北朝時代には小笠原政長(貞宗の子)は北朝に属したものの伊那谷は北条時行の拠点であり、後に諏訪氏や仁科氏等の南朝の拠点となった。対して貞宗の跡を継いだ小笠原長基は若年であったため、代わりに上杉氏や斯波氏が信濃守護を任じられた。長基は正平10年/文和4年(1355年)4月の桔梗ヶ原の戦いで南朝の宗良親王を破り吉野へ駆逐するなど戦功を挙げ、信濃守護に任じられた。 しかし、応永7年(1400年)に足利義満に仕えばさらであった小笠原長秀(長基の次男)が信濃国守護に任じられて入国すると、村上氏、仁科氏、諏訪氏、滋野氏、高梨氏、井上氏など、信濃国人の大半が反発して大塔合戦を起こし、これに大敗した長秀は京都に逐電し守護職を罷免された。信濃守護職は斯波氏を経て室町幕府の料国(直接統治)とされたが、信濃小笠原氏の家督を継いだ長秀の弟の小笠原政康が応永32年(1425年)に信濃守護職に任命されてからは信濃小笠原氏の守護職の地位が安定化した。 信濃小笠原氏が度々守護職が外された理由としては、信濃小笠原氏の統治能力の問題だけではなく、信濃が室町幕府の勢力圏と鎌倉府の管轄地域の境目にあり、その管轄が幕府と鎌倉府の間で変更されたり、自立性の強い信濃国人が守護による統治を嫌って幕府の直接統治を望んだことなどがあげられる。それが、大塔合戦の背景の一つでもあり、また信濃小笠原氏も上杉氏や斯波氏の守護在任時代には反守護の信濃国人側に立っている。だが、応永年間末期に室町幕府と鎌倉府の対立の構図が明確になると信濃は幕府側の最前線として位置づけが固まったこと、信濃国人が幕府の意向に必ずしも忠実ではないことが明らかになったことで信濃有数の勢力を持って幕府に比較的忠実な小笠原氏を守護として鎌倉府に対峙させ、幕府がそれを支援する方針が固まってきたと考えられている。もっとも、小笠原氏の守護職復帰後も村上氏・諏訪氏ら信濃国人との間に封建的な主従関係を確立できたわけではなく、守護権力が弱体化した状態が続くことになる。
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