関東管領就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)
この間に景虎は、上杉憲政の要請もあって鎌倉府の鶴岡八幡宮において永禄4年(1561年)閏3月16日、山内上杉家の家督と関東管領職を相続、名を上杉政虎(まさとら)と改めた。元々、上杉家は足利宗家の外戚として名門の地位にあり、関東管領職はその縁で代々任じられてきた役職であった。長尾家は上杉家の家臣筋であり、しかも上杉家の本姓が藤原氏なのに対して長尾家は桓武平氏であった。就任の許可は将軍・足利義輝から直々に貰い、関東管領職の就任式の際には、柿崎景家と斎藤朝信が太刀持ちを務めた。 ただし、『藩翰譜』によると、政虎自身が上杉頼成の男系子孫であるという記述がある。『応仁武鑑』や『萩原家譜案』にも、上杉頼成の男子(長尾藤景)が長尾氏へ入嗣した旨が記されている。しかし、他の系図では上杉家から養子を迎えたのは下総国に分家した長尾であって、越後長尾氏には直接関係無いとする系図がほとんど(景為あるいは景能の流れ)である。実際の血統が繋がっていなくとも、長尾家も佐竹家と同じく上杉家からの養子を迎えた家系ということになる。 なお、山内上杉家では、室町時代後期に関東管領が天皇の綸旨にて任じられた事がある経緯から、関東管領職が朝廷の官職と同一とみなされていた。上杉顕定以降の関東管領は朝廷から任官を受けたり官途名を名乗ったりする事は無く仮名(けみょう)を名乗り続け、関東管領前に任官を受けたり官途名を名乗っていた者は以降の官位を受けずに就任前の名乗りを続けていた(公式には官職名や官途名が優先されるため)。謙信が関東管領就任以降に官位を受けずに「弾正少弼」のままでいたのはその慣例に従ったとみられている(先例として顕定の前任者で管領就任後も兵部少輔を称し続けた上杉房顕がいる)。
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