諸大名らとの交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 07:57 UTC 版)
義輝は幕府権力と将軍権威の復活を目指し、諸国の戦国大名との修好に尽力し、紛争の調停なども行っている。 例えば、伊達晴宗と稙宗(天文17年(1548年))、里見義堯と北条氏康(天文19年(1550年))、武田晴信と長尾景虎(永禄元年(1558年))、島津貴久と大友義鎮、毛利元就と尼子晴久(永禄3年(1560年))、松平元康と今川氏真(永禄4年(1561年))、毛利元就と大友宗麟 (永禄6年(1563年))、上杉輝虎(長尾景虎改め)と北条氏政と武田晴信(永禄7年(1564年))など、大名同士の抗争の調停を頻繁に行った。 また、義輝は諸大名への懐柔策として、大友義鎮を筑前・豊前守護、毛利隆元を安芸守護に任じ、さらに自らの名の偏諱(1字)を幕臣や全国の諸大名などに与えた。例えば、「藤」の字を細川藤孝(幽斎)や筒井藤勝(順慶)、足利一門の足利藤氏・藤政などに、「輝」の字を上杉輝虎(謙信)・毛利輝元・伊達輝宗などの諸大名や足利一門、藤氏・藤政の弟である足利輝氏などに与えた。また、朝倉義景、島津義久、武田義信などのように、足利将軍家の通字である「義」を偏諱として与える例もあった。 また、上杉輝虎の関東管領就任の許可をはじめ、御相伴衆を拡充し、毛利元就、毛利隆元、大友義鎮、斎藤義龍、今川氏真、武田信虎といった諸大名も任じた。 永禄2年2月、尾張の織田信長が上洛したのをはじめ 、4月に美濃の斎藤義龍が、5月には越後の長尾景虎(上杉謙信)が相次いで上洛し、義輝に謁見した。 同年、大友義鎮を九州探題に任命し、九州の統治を委ねた。もともと、九州探題は足利氏一族の渋川氏が世襲していたが、少弐氏と大内氏の抗争に巻き込まれてすでに断絶していたため、これを補うための補任であった。大友家は九州において、足利将軍家に最も親しい有力守護大名である(この時、大友義鎮は豊後・豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の守護および日向の半国守護を兼ねていた)。 また、この年に伊達晴宗を奥州探題に任命している。もともと、奥州探題は足利氏一族である斯波氏の庶流である大崎氏が世襲していたが、伊達氏の軍事的圧力によってすでにその支配下に置かれていたため、その現状に対応するための補任であった。ただし、これはあくまでも手続上の話で、実際には弘治元年(1555年)には既に晴宗を探題として遇していたとされている。 永禄年間には、信濃国北部を巡る甲斐国の武田信玄と越後国の長尾景虎との川中島の戦いが起きており、義輝は両者の争いを調停し、永禄元年には信玄を信濃守護に補任した。だが、信玄はさらに景虎の信濃撤退を求めたため、義輝は景虎の信濃出兵を認めた。 永禄4年、信玄に駆逐され上方へ亡命していた前信濃守護・小笠原長時の帰国支援を、長尾景虎に命じている。
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