諸子の放蕩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/08 07:22 UTC 版)
石韜を太尉に任じ、石宣と交代で尚書の奏事を決裁するよう命じた。褒賞・刑罰については自らの判断で決める事を許され、報告する必要も無かった。司徒申鍾はこれを諫めて「賞刑というものは、人君の大柄であり、他人に任せるべきではありません。悪い事象は芽生えたうちに摘み取り、乱を未然に防止すべきです。これをもって軌儀を示すものです。太子とは国の儲貳であり、その職は朝夕に膳を視る事であり、政務を預かるべきではありません。庶人邃(庶人に落とされて処刑された石邃の事)も政務を預かった事であのような事となり、あれは決して遠い昔の事ではありませんぞ。また、政治を二つに分権するのも、禍のきっかけとならないのは稀です。周では王子頽の釁、鄭では共叔段の難が起こりましたが、これはいずれも道を外れた寵によるものです。故に国は乱れて親は害されたのであり、陛下がこれを覧じる事を願います」と述べたが、石虎は聞き入れなかった。 中謁者令申扁は頭脳明晰にして弁舌が巧みであったので、石虎より寵愛されていた。石宣もまた彼とは親しくしていたので、国家の機密について任せるようになった。石虎が政務を執らなくなると、石宣は酒を飲んで遊び回り、石韜もまた酒色にふけって狩猟を好んだので、褒賞や刑罰はみな申扁に任せきりとなった。これにより申扁の権力は内外を傾ける程となり、二千石の身分が一門から多数輩出され、九卿以下はみな彼の後塵を拝したという。しかし、常侍盧諶・侍中鄭系・王謨・崔約ら10人余りだけは申扁と対等な関係を崩さなかったという。 燕公石斌は北方の国境を守備していたが、酒に溺れて狩猟に耽り、彼の側近もまた好き勝手に振る舞った。征北将軍張賀度はその振る舞いを幾度も諫めたが、石斌はこれに怒って張賀度を辱めた。この事が石虎に伝わると、石虎は石斌を杖刑百回の罰を与え、さらに主書の礼儀(人名)に節を与えて石斌を監視させた。それでも石斌は酒や猟を慎まなかったので、礼儀は法を引き合いに出して強く諫めたが、逆に怒りを買って殺害されてしまった。石斌はさらに張賀度をも殺害しようとしたので、これを知った張賀度は周囲の警護を厳重にした上で、石虎にこの事を報告した。張賀度からの報告が石虎に届くと、石虎は尚書張離に節を持たせ、さらに騎兵を与えて石斌の下へ派遣した。石斌は鞭刑三百を加えられ、生母の斉氏は殺害された。石虎は矢を番えて弓を引き絞り、石斌の刑罰を見守り、刑罰の執行に際して手加減を加えた刑吏を5人自ら殺害した。刑が終わると石斌を罷免して邸宅へ謹慎するよう命じた。また、石斌に親任されていた10人余りを誅殺した。
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