諸学説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/13 16:48 UTC 版)
古麻比留が昆布を納めていた陸奥国府は、年代的に、現在の宮城県仙台市に位置する郡山遺跡にあたる。閇村とは、地名としては後の閉伊郡にあたり、三陸海岸に面した地である。かつては、当時の日本の支配領域からあまりに遠いという感覚から、閇伊地方への建郡を疑う見解もあった。しかし、青森県八戸市の田面木平遺跡の竪穴住居から7世紀後半の須恵器などが出土すると、三陸海岸北部がこの頃既に中央と強い関係をもっていたとみなせるようになった。 閇村に建てられた郡は内国の郡とは異なり、緩い貢納関係で律される蝦夷郡にあたると考えられる。 史料的には7、8世紀に蝦夷が多く上京して朝貢したことが知られており、それが9世紀になると陸奥・出羽両国に対するものに変わる。8世紀段階の令制国に対する「貢献」の記事は、この須賀古麻比留の一族に関するものの他には、渡島蝦狄(北海道の蝦夷)によるものだけである。この当時の地方官衙への貢納は、支配関係が弱い人々に課されているのではないかとする説がある。
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諸学説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 08:07 UTC 版)
文の区切り方を違え、4月に恩荷が位を授かるのと同時に渟代と津軽の郡領に定められたと読む解釈もある。その場合7月の記事とは矛盾するが、これについては4年7月の記事を斉明天皇元年(655年)7月の蝦夷叙位の重出とみる。同じ事件が別の年に分けられて2回以上出ているのではないか、という推測は、阿倍比羅夫関連では様々な組み合わせで唱えられる説である。 恩荷が齶田浦の神に誓ったのは、日本の神祇信仰にもとづく振る舞いとしても理解できる。蝦夷の信仰が日本人と変わらないものだったとみなすことも、恩荷が来航者の意向にあわせたと考えることも可能である。新野直吉はさらに、古四王神社がその神をまつるものだと唱える。 また津田左右吉は、中央の朝廷が行うはずの授位や任官を越の国司が行ったことをいぶかしみ、恩荷が位を授かったのは事後だろうと説いた。しかし、陸奥国司が俘囚に位階を授け村長に補したことは平安時代初めに慣行としてあり、直ちに虚偽と断じることはできないようである。
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