諸子百家の著述
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荘子(紀元前369年 - 紀元前286年と推定される)が著したという『荘子』の中には老聃という人物が登場し(例えば「内篇、徳充符篇」や外雑篇)、『老子道徳経』にある思想や文章を述べる。荀子(紀元前313年? - 紀元前238年?)も『荀子』天論編17にて老子の思想に触れ、「老子有見於詘,無見於信」(老子の思想は屈曲したところは見るべき点もあるが、まっすぐなところが見られない。)と批判的に述べている。さらに秦の呂不韋(? - 紀元前235年)が編纂した『呂氏春秋』不二編で「老耽貴柔」(老耽は柔を貴ぶ)老耽という思想家に触れている。貴公編では孔子に勝る無為の思想を持つ思想家として老耽を挙げ、その思想は王者の思想(至公)としている。 このような記述から窺える点は、老子もしくは老子に仮託される思想は少なくとも戦国時代末期には存在し、諸子百家内に知られていた可能性が大きい。しかし、例えば現代に伝わる『荘子』は荘子本人の言に近いといわれる内篇7と彼を後継した荘周学派による後に加えられたと考えられる外編15、雑篇11の形式で纏められているが、これは晋代の郭象(252年? - 312年)が定めた形式であり、内篇で老子に触れられていてもそれが確実に荘子の言とは断定できない。このように、諸子百家の記述に出現するからといって老子が生きた時代を定めることは出来ず、学会でも結論は得られていない。
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