思想家として
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「名家 (諸子百家)」も参照 恵施は公孫龍と並ぶ名家の中心人物として知られる。恵施の思想は、『荘子』天下篇(諸子百家の学説誌的な篇)の終盤で詳細に紹介される。天下篇には、「歴物十事」と通称される十個の学説が伝えられる。ただし、いずれも解釈に諸説ある。 天下篇によれば、恵施の著作は五台の車に積めるほど膨大にあった(「其書五車」)。しかしながら、漢代までに大半が散佚してしまい、『漢書』芸文志には僅かに『恵子』一篇だけが載っている。漢代の後は完全に散佚してしまい、『隋書』経籍志には『恵子』そのものが載っていない。 天下篇によれば、恵施は他の弁者たちと奇怪な学説をぶつけ合って楽しんでいた。また、南方の黄繚という奇人と、天が落ちてこない理由や気象現象の原因について語り合っていた。 『説苑』善説篇によれば、恵施は政治活動においても、比喩を巧みに用いて相手を言いくるめる人物として知られていた。 『韓非子』の諸篇(説林上篇・説林下篇・内儲説上篇・外儲説左上篇)には、恵施の警句的な発言が伝えられる(説林上篇では「恵子」ではなく「慧子」とも表記される)。 『荀子』の諸篇(不苟篇・非十二子篇・儒效篇・解蔽篇)では、恵施は邪説を説く者として、鄧析や他の諸子と一緒に非難されている。 『世説新語』文学篇では、東晋の謝玄と司馬道子が、恵施の思想が後世断絶した理由について会話している。
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思想家として
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「名家 (諸子百家)」も参照 『呂氏春秋』の諸篇によれば、燕の昭王に「偃兵」(非戦・休戦)を説いた後、趙の平原君の食客となり、恵文王に「偃兵」「兼愛」を説いたという。この二つは墨家の思想的特長とされるものでもある。 『公孫龍子』では、「白馬非馬説」すなわち「白とは色の概念であり、馬とは動物の概念である。であるから、この二つが結びついた白馬という概念は馬という概念とは異なる」という論や、「堅白論」すなわち「白くて固い石は手で触っているときには白いということは解らず、目で見ているときには硬いということが解らない。すなわち、白いという概念と硬いという概念は両立しない」という論などを説いている。 『韓非子』外儲説左上篇では、兒説という人物が白馬に乗って関所を通る際、「白馬非馬説」を用いて馬の通行税を免れようとするものの、役人が頑として聞かず、結局は税を支払ったという。別の書物では、公孫龍も同じようなことをしたという(『白孔六帖』巻9所引の『新論』など)。 『史記』平原君虞卿列伝によれば、陰陽家の鄒衍が趙に来て、平原君の面前で「白馬非馬説」などを無用な学説として非難し、「至道」の説を唱えてからは、平原君の寵愛を失い、趙を去ることになったという。その後の行方は知れない。
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