思想史研究における史料としての利用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/30 18:01 UTC 版)
「崔溥」の記事における「思想史研究における史料としての利用」の解説
崔溥は一般的な儒教知識人の筆致で記録を残しており、初期朝鮮の儒家の価値観をうかがい知ることができる。 朝鮮から北京へは頻繁に朝貢使節が送られており複数の『燕行録』が残っているが、崔溥の旅行記は、そのような外交使節の立場ではなく、漂流者という立場から書かれているという点で、他の外国人による中国旅行記の中で異彩を放っている。 Anderson (1988) の指摘によれば、前近代の朝鮮人たちは、中国にへつらいがちであり、中国の全てを肯定的に捉えてしまいがちである中で、崔溥は外からやってきた者の視点で中国をいくらか批判的に捉えるところもある。 好奇心旺盛な中国人に朝鮮の先祖崇拝の祭祀についてどう思うか意見を求められたとき、崔溥は「私の国では男達は皆、お社を建てて、先祖を祀るために犠牲を捧げます。ちゃんとした神や精霊をお祀りしており、正統的でない犠牲には敬意を払いません。」と答えている。 また、崔溥が旅行中に出会った儒者のWang Yiyuan は、崔溥とその一行の苦境に同情し、茶を勧めて、「朝鮮の人たちは本朝人と同じく仏陀を敬うのか」と尋ねた。そのとき崔溥は、「我が国では仏法を敬うことはありません。ただ、儒説を尊ぶのみです。朝鮮の全ての家族が、孝悌、忠義を事と為します。」と答えている。 Kendall (1985) が指摘するところによれば、これらはおそらくこうであったらいいなという願望であって、15世紀の朝鮮儒者(ソンビ)が考えた、中国人が孔子の教えに忠実であり文明的であると思うであろう社会がどのような社会かを示している。 崔溥は自身が士大夫(又はソンビ)であるという矜持を持っていたので中国にへつらうことはなく、外からやってきた者の立場で中国を捉えていたが、彼が書いたものの中には中国への強い親近感を表出したものもある。その中には、価値観は違うけれども、朝鮮と中国の文化はほとんど見分けが付かないほど同じだと書いたものがある。例えば、崔溥の旅のために大きな便宜を図ってくれた明朝の官僚との会話では、次のように書いている。 確かにご厚意を承りました。我が朝鮮は海を隔ててはいるものの、衣服も文化も中国と同じであり、中華でないとは思われません。我らは天下に兄弟です。距離の遠さゆえに人の間に差別などできましょうか。我が朝鮮が天朝に仕え奉り、疎漏なく貢献奉るさまは、まさに忠でございます。皇帝陛下におかれましては、我らを威儀正しく懇ろに取り扱って頂き、まったく不安を覚えるようなことがございませんでした。 — Kleiner (2001, p. 5) 一方では、傲慢な中華思想への反感も書き記している。例えば、ある明人に、朝鮮の科挙が五経の内一つだけを専門にする程度のものではないのかと言われたときのことについては、一経のみを学び五経全てを学ばない受験生がいたとしたら、そんな者は科挙に合格などできず、駆け出しの儒生ですらないではないかと不満を書いている。
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