上篇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 00:44 UTC 版)
上篇は、袁世凱と孫文の人物月旦評の章「袁世凱の人物月旦」「孫文の人物月旦」から始まり、その次の章「共和政体の将来」では、支那の共和政体の将来を、政治革命よりも先に社会の腐敗体質をなくさなければ支那の根本は変らないとし、歴史的に大総統の帝王思想の根強さや終身総統・専制的君主になろうとする野心的な傾向、中国人民に個人崇拝と依頼の心理が広く浸透していることなどを見ながら言及している。 続いての章「支那人は共和国民の資格なし=共和の歴史なし=共和の思想なし」「支那人は共和国民の素養なし」「支那人は共和の信念なし」においても、歴史的に中国人民は元来から共和の精神や平等観念がなく、共和の主張は孫文から始まったことで、実態も伴わずに突如として「共和国」が誕生したのは共和の真の意味を知らない証拠だと断じている。 そこでの斗南の論旨は、中国人にとって共和は欧米から借りた外形だけの「形式」で、実際は国民の教育普及度や識字率の低さが物語っているように真の共和の精神からは程遠い国柄だと分析している。斗南は、「支那人は共和国民の素養」がなく「夫れ支那人巳には共和国民たる資格なく、能力なし」と断じ、彼らに共和の歴史も思想もないことを説いている。 続く章「支那人の虚勢的元気」では、「虚勢を張りて、実力に乏しく、虚飾を喜びて、実際を務めざる」は漢族の数百年来の性癖だと述べ、彼らの虚勢的元気の「声勢」に日本人が幻惑されがちなことなどを戒めている。その次の章「支那人は各省の観念ありて国家的観念なし」でも斗南の忌憚ない批判は続き、最後の「支那の運命」いう章に至る。 「虚勢的元気」のみで「各省分の観念ありて国家的観念なし」の支那の運命について斗南は、「余敢えて断じて曰ふ、各省の分裂のみ、列強の分割のみ、五胡十六個の再現のみ」と結論づけている。 人は人と争ひ、州は州と争ひ、省は省と争ふ。漢奸満賊所在皆是なり。四万々人各々一身の為めに計りて国家の為るに計る者なく人々家族の為めに謀(はか)りて民族の為めに謀らず。(中略)況んや今の老朽腐敗せる支那民族をや。軽佻浮薄、怠惰怯懦、気なく肝なき支那人をや。余故に曰ふ、過去の迹(あと)を察し、現在の事に徴し、将来の勢を推すに、支那の分割に帰着せんこと断々乎として疑なしと。 — 中島端『支那分割の運命』 この辛口の叱咤は、中国通の斗南がいわば支那人自身の憂国を代弁したものでもあり、西欧列強から狙われて分割の危険があるにもかかわらず、中国人同士が内乱状態の現状へのもどかしさを率直に述べたものだと川村湊は解説している。
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