武田義信(たけだ よしのぶ) 1538~1567
武田義信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/04 17:23 UTC 版)
武田 義信(たけだ よしのぶ)は、戦国時代の武将。甲斐の戦国大名・武田信玄の嫡男だったが、信玄への謀反の疑いから廃嫡された。同母弟に海野信親、武田信之 (武田信玄三男) 。
注釈
- ^ 庶子であったこともあり母方の親族である秤師の吉河守隨茂済の養子とされた[1]。
- ^ ともに「高白斎記」『山資』6上所載、「高白斎記」は武田家臣駒井政武の原筆と考えられている武田家の記録資料で、義信の祝言にあたる天文22年までの武田家に関する家政記事や対外情勢が記されている。また、武田氏と今川氏は晴信・義元の前代において和睦し同盟関係にあり、晴信・義元期には相模国の後北条氏との同盟が成立し甲相駿三国同盟となるが、義信正室に義元の娘が迎えられたこともその一環であると考えられている。
- ^ 義信事件に関する考察には、平山優 著「武田勝頼の再評価」、山梨県韮崎市教育委員会 編『新府城と武田勝頼』山梨県韮崎市教育委員会、2001年。がある。
- ^ 一方、西川広平は長尾輝虎との対陣に際して起請文が奉納されてきた生島足島神社の性格から、永禄10年の起請文奉納も輝虎方への同調を抑止する意図であったとしている[22]。
- ^ 『甲斐国志』、高野山成慶院「武田家過去帳」に拠る。なお、穴山彦八郎の実名は『国志』では「信邦」としているが、高野山成慶院「檀那御寄進状并消息」から「信嘉」であることが確認される。
出典
- ^ "守随信義". デジタル版 日本人名大辞典+Plus. コトバンクより2020年7月10日閲覧。
- ^ 「大聖寺甲斐源氏系図」『山梨県史』資料編6上(県内記録)所載。
- ^ 「勝山記」『戦国遺文武田氏編』414号文書)
- ^ 「越後野志」『下巻』)
- ^ 『山梨県笛吹市 二之宮 美和神社所蔵』 山梨文化財リスト(有形文化財:絵画) 笛吹市:板絵著色三十六歌仙図【県指定】【御坂】 東京文化財研究所:年紀資料
- ^ 「武田源氏一流系図」『山資』6下(県外記録)所載、「十輪院武田家過去帳」『山資』6下所載、義信事件については後述。
- ^ 平山優氏「切腹だったのか、病死だったのか、これまで二説に分かれていましたが、このほど大河ドラマ『真田丸』でも時代考証を担当されていた黒田基樹氏により新史料が発掘されまして病死だという事が明らかになりました」 NHK大河ドラマ「どうする家康」コラム 大河と歴史の裏話『文化人としての 武田信玄・今川義元を描く』2023年6月25日https://www.nhk.or.jp/ieyasu/column/19.html
- ^ 『「時代を駆け抜けた戦国武将たち~武田信玄の新研究・義信事件を考える」講師は、2016年NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当された駿河台大学教授の黒田基樹先生。重要史料によれば、義信は病死であった。これにより事件の背景や事件への信玄の処置についての理解は、大きく考え直さなければならない。事件について新たな見解を提示し、真実に迫る。』武田信玄の新研究【NHKカルチャーオンデマンド講座】2022年4月22日
- ^ 「永禄10年というと、甲斐国の武田信玄の嫡男・義信が病死した年でもありました。」【豊臣秀頼が出馬していれば家康を打ち取れたかもしれない家康に切腹を覚悟させた真田信繁のツワモノぶり…大坂夏の陣で家康本陣を切り崩したラストサムライの最期】2023.12.04 濱田浩一郎
- ^ 「永禄10年(1567年)に病死。」【徳川家康が「武田信玄」に心開かなかった複雑事情】2023/02/26 濱田浩一郎
- ^ a b 大石泰史『今川氏滅亡』KADOKAWA〈角川選書604〉、2018年5月18日。ISBN 978-4-04-703633-8。頁271–272.
- ^ 「戦国北条フェスオフィシャルブックvol.1」2024年1月7日 『武田信玄・勝頼の対北条氏外交と戦略』平山優 p.27
- ^ 『上越市史』
- ^ 『甲斐国志』
- ^ “かつての抗争相手の妹を徳川秀忠の「育ての親」に 家康は今川家を頼りにしていたのか”. AERA dot. (2023年8月27日). 2023年9月5日閲覧。
- ^ “信長でも秀吉でも信玄でもない…「徳川家康にもっとも影響を与えた戦国大名」の数奇な生涯”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2023年5月4日). 2023年12月14日閲覧。
- ^ 『今川家瀬名家記』
- ^ 「飯富兵部少輔所行を以て、信玄・義信の間相妨たぐべき陰謀露見候条、生害を加えられ候。父子間の事は、元来別条無く候。心易かるべく候」(『尊経閣古文書纂』 十月二十三日付)
- ^ 「戦国北条フェスオフィシャルブックvol.1」2024年1月7日 『武田信玄・勝頼の対北条氏外交と戦略』平山優 p.27
- ^ a b c d 「戦国北条フェスオフィシャルブックvol.1」2024年1月7日 『武田信玄・勝頼の対北条氏外交と戦略』平山優 p.27
- ^ 丸島和洋「武田氏から見た今川氏の外交」『静岡県地域史研究』5号、2015年。
- ^ 西川広平 著「武田信玄の願文奉納をめぐって-宗教政策の一側面-」、柴辻俊六 編『新編 武田信玄のすべて』新人物往来社、2008年。
- ^ 平山優 著「武田勝頼の再評価」、山梨県韮崎市教育委員会 編『新府城と武田勝頼』山梨県韮崎市教育委員会、2001年。
- ^ 丸島和洋「高野山成慶院『甲斐国供養帳』-『過去帳(甲州月牌帳)』」『武田氏研究』34号、2006年。
- ^ 平山優『穴山武田氏』戎光祥出版社〈中世武士選書5〉、2011年。
武田義信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 17:58 UTC 版)
晴信と三条の方との間に出来た嫡男。母親似であるが大人しい性格で今のところ一度も発言したことがない。なお、今川家から娶った正室・おつねは彼に顔がそっくりで、先述のとおり勘介により人知れず結婚していた。そのことを知らない三条の方には、「ヘンなオッカケ」と認識されてしまう。
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