嶺松院
嶺松院
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嶺松院
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/04 19:28 UTC 版)
嶺松院(れいしょういん)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての女性。甲相駿三国同盟の一環として、武田義信と結婚した。
注釈
- ^ 小和田哲男編『戦国大名閨閥事典』(新人物往来社、1996年)今川氏の章(執筆者:小和田美智子)は、天文10年(1541年)生まれとする。12歳で結婚、27歳で夫を失い、72歳で死去した計算になる。
- ^ 「此年〔天文21年〕霜月廿七日、駿河義元御息女様ヲ甲州晴信様御嫡武田大吉〔義信〕殿様ノ御前ニナホシ被食候」[3]、「〔同11月〕廿七日乙巳、酉戌ノ刻府中〔甲府〕穴山宿へ御着。子丑ノ刻御新造ヘ御移リ」[4]。
- ^ ほか、江戸後期に成立した『甲斐国志』では女子二人を記している。園光院には同腹の姉妹が一人いたともいう。熊本藩細川家に仕えた岩間家は、祖の岩間正成が義信と今川氏(嶺松院)の子であるとしている。
- ^ 平山優氏「切腹だったのか、病死だったのか、これまで二説に分かれていましたが、このほど大河ドラマ『真田丸』でも時代考証を担当されていた黒田基樹氏により新史料が発掘されまして病死だという事が明らかになりました」 NHK大河ドラマ「どうする家康」コラム 大河と歴史の裏話『文化人としての 武田信玄・今川義元を描く』2023年6月25日
出典
- ^ 大石 2018, p. 134.
- ^ 大石 2018, p. 277.
- ^ 『妙法寺記』[要ページ番号]
- ^ 『高白斎記』[要ページ番号]
- ^ 「戦国北条フェスオフィシャルブックvol.1」2024年1月7日『武田信玄・勝頼の対北条氏外交と戦略』平山優 p.27
- ^ 大石 2018, p. 270.
- ^ 『「時代を駆け抜けた戦国武将たち~武田信玄の新研究・義信事件を考える」講師は、2016年NHK大河ドラマ「真田丸」の時代考証を担当された駿河台大学教授の黒田基樹先生。重要史料によれば、義信は病死であった。これにより事件の背景や事件への信玄の処置についての理解は、大きく考え直さなければならない。事件について新たな見解を提示し、真実に迫る。』武田信玄の新研究【NHKカルチャーオンデマンド講座】2022年4月22日
- ^ 「永禄10年というと、甲斐国の武田信玄の嫡男・義信が病死した年でもありました。」【豊臣秀頼が出馬していれば家康を打ち取れたかもしれない家康に切腹を覚悟させた真田信繁のツワモノぶり…大坂夏の陣で家康本陣を切り崩したラストサムライの最期】2023.12.04 濱田浩一郎氏
- ^ 「永禄10年(1567年)に病死。」【徳川家康が「武田信玄」に心開かなかった複雑事情】2023/02/26 濱田浩一郎氏
- ^ a b 大石 2018, pp. 271–272.
- ^ 「戦国北条フェスオフィシャルブックvol.1」2024年1月7日 『武田信玄・勝頼の対北条氏外交と戦略』平山優 p.27
- ^ 大石 2018, p. 272.
- ^ 『史料綜覧』
- ^ a b c 「戦国北条フェスオフィシャルブックvol.1」2024年1月7日 『武田信玄・勝頼の対北条氏外交と戦略』平山優 p.27
- ^ “かつての抗争相手の妹を徳川秀忠の「育ての親」に 家康は今川家を頼りにしていたのか”. AERA dot. (2023年8月27日). 2023年9月5日閲覧。
- ^ “信長でも秀吉でも信玄でもない…「徳川家康にもっとも影響を与えた戦国大名」の数奇な生涯”. PRESIDENT Online(プレジデントオンライン) (2023年5月4日). 2023年12月14日閲覧。
- ^ 観泉寺史編纂刊行委員会 1974, p. 74.
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