人物・総合的な評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 07:48 UTC 版)
関東管領職にこだわり続けた面から、形式に拘る形式主義者、実質よりも権威を重んじる権威主義者、室町幕府体制の復興を願う復古主義者と評する声があるが、謙信の時代の関東や越後では畿内の幕府や管領などの権威と違い関東管領職の権威はある程度通用した、それ処か、室町時代より越後に勢力を持つ上杉一族の上に立ち、越後の各地で権力を拡大し自立を強める国人領主達を統合するためには、関東管領就任は何としても必要だった、との評もある。また、権威や管領職への敬意は、謙信の義理堅さを表しているとも言える。謙信の関東出陣回数は17回であり、いったん広げた支配地域は北条・武田氏の攻勢やそれを受けた諸将の離反で次々縮小したが、謙信の義理堅さの表れと見る向きもある。 一方で、越相同盟で北条家の強い要請にも関わらず武田信玄との正面衝突を避けたこと、信濃・関東での南下政策が難航すると北陸侵攻に力を入れたことなどから、領土拡張や利害を慎重に判断していたと分析する現代の研究もある。謙信の美化は、江戸時代に紀州徳川家が後援した上杉流軍学の影響が指摘されるほか、上杉景勝以降の米沢藩も謙信を神格化して家中統一と権威付けを図った。 大義名分を盾にし自己正当化をすることに拘り(合戦する際の理由で自身を正当化するのは秀吉や家康もしており当然ではあるが)、権威への羨望があったからこそ、山内上杉家を継いだとの説もある。ただし、元来は越後上杉家が守護を務め、越後上杉家の被官家臣が数多くいた越後を統一するには、上杉家宗家である山内上杉家の家督は必要不可欠であったとする指摘もある。 また、軍事面で評されることが多いが、謙信は内政面に関しても数多くの業績を残している。日本海側の海上交易の要衝としての利益も大きかった。豊富な資金力を生かして民政面でも成果を上げている。 特に、当時衣料の原料だった青苧の流通及び課税を統制し、利益を上げている。 詳細は「青苧座」を参照 なお、藤木久志は「上杉謙信は越後の民衆にとっては他国に戦争と言うベンチャービジネスを企画実行した救い主であるが、襲われた関東など戦場の村々は略奪を受け地獄を見た」と、通常言われる義人・上杉謙信像とは別の上杉軍の姿こそが実態であったとしている が、市村高男は「合戦の主体となる正規の軍隊はどのようにして軍資金等を確保することができたのか」「敵地には略奪するほどの諸物資が存在したのであろうか」「社会状況の具体的な提示があるものの、戦闘に至る直接の契機についてはもとより、それらの社会状況と合戦を開始する権力側のいきさつがどのように関連していたのか」など数々の疑問を呈している。一方でこの「出稼ぎ」説を支持する研究者、識者も現れており、福原圭一は藤木の説を引用し、略奪が行われていた可能性を示唆した。ほか、黒田基樹も、出稼ぎ説の一部を複数の著作の中で踏襲している。ただし、謙信のみならずこの当時の戦いでは、戦場での略奪・放火は一般的な行為だった。
※この「人物・総合的な評価」の解説は、「上杉謙信」の解説の一部です。
「人物・総合的な評価」を含む「上杉謙信」の記事については、「上杉謙信」の概要を参照ください。
- 人物・総合的な評価のページへのリンク