関東管領・山内上杉家とは? わかりやすく解説

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関東管領・山内上杉家

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/07 09:54 UTC 版)

関東享禄の内乱」の記事における「関東管領・山内上杉家」の解説

享禄2年1529年正月二十四日山内上杉家家臣白井長尾景誠長尾八郎謀殺される(『続本朝通鑑』)。山内上杉家内部対立があることを示す。 享禄2年1529年八月十四日山内上杉氏当主上杉憲寛上野国碓氷郡安中城安中氏討伐開始同盟関係にあった扇谷上杉氏の上朝興からは制止されたが、これを無視した。(『続本朝通鑑』) 享禄2年1529年九月二十二日条 西氏と小幡氏上杉憲政擁立上杉憲寛に対して謀反起こした。憲寛は長野氏随行させながら、安中城から程田高崎市)に後退。(『続本朝通鑑』) 憲寛による安中氏討伐背景には、長野氏安中氏対立があったと考えられる享禄3年1530年5月左衛門尉」が上野国多胡郡仁叟寺吉井町に対して禁制与えた山内上杉氏領国内で戦乱があったことを示す。 享禄3年1530年5月21日 上杉憲寛が、高田憲頼の注進により、被官守山与五郎戦勲に対して感状発給高田憲頼が憲寛側だったこと、上野国甘楽郡高田城富岡市周辺合戦があったことを示す。 享禄3年1530年10月25日 上杉憲寛が、用土新三郎(業国)領の武蔵国男衾郡赤浜被官・三富平六に与える。用土氏は憲寛に敵対していたことを示す。 享禄4年1531年9月3日 上杉憲政関東管領継ぎ、憲寛は上総国宮原(市原市)退去して、晴直と名を改めた抗争終結し上杉憲政勝利したことを示す。

※この「関東管領・山内上杉家」の解説は、「関東享禄の内乱」の解説の一部です。
「関東管領・山内上杉家」を含む「関東享禄の内乱」の記事については、「関東享禄の内乱」の概要を参照ください。

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