東本庄館 築造に至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/06/06 01:48 UTC 版)
「本庄信明」の記事における「東本庄館 築造に至る経緯」の解説
本庄宮内少輔信明は、北堀、栗崎、東富田、五十子、本庄、傍示堂を所領していた武将で、関東管領山内上杉家に属し、古河公方(足利家)と対立し、上杉家が築いた五十子陣が横側から攻撃される事を想定し、それを防ぐ目的で小山川西岸の北堀地内の東本庄に館を構えた(従って、信明は五十子の戦いを経験したものと見られる)。以降、本庄宮内少輔実忠が弘治2年(1556年)に本庄城を築き、移動するまで、本庄氏は東本庄館を本拠地とした。東本庄館の築造は五十子陣築造(1457年)後間もない頃と考えられ、15世紀中頃の末から16世紀中頃まで機能していた。信明は館の守護神として稲荷神社を勧請している。
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