東月寒の歴史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 03:41 UTC 版)
月寒東のうち月寒川の東側は「東月寒」と呼ばれており、現在は住居表示上存在しないものの、学校や連絡所等の公共施設名や町内会名に用いられている。 1877年(明治10年)に箱館戦争に破れ、道内を逃走していた和田儀平(逃走中に姓名を変更)が、現在の札幌市立羊丘小学校付近に入植したのが、東月寒最初の入植と言われる。 東月寒は、開拓当初、国道36号側を「二里塚」、東北通(とうほくどおり)側を東北通り(ひがし・きたどおり)と分けていたが、1944年(昭和19年)に東月寒地区の大半の土地を所有する八紘学園に倣い「八紘」(はっこう)と改称し統合した。ちなみに、東北通りと呼ばれていた時代、月寒川の西側は西北通り(にし・きたどおり)と呼んでいた。 戦後、八紘から東月寒と改称したが、1950年(昭和25年)に111世帯、人口545人だったのが、工場の建設、宅地化などの影響もあり昭和50年代には5,000世帯、人口15,000人を超え、また、隣接する月寒東と紛らわしいとの理由もあり、1973年(昭和48年)12月1日に現在の月寒東5条11丁目、5条12丁目、1978年(昭和53年)10月23日に現在の月寒東1条11丁目、2条11丁目、3条10丁目、4条10丁目、5条12丁目、11月13日に現在の月寒中央通11丁目と改称し、1980年(昭和55年)1月28日には、残る全域を月寒東へと改称した。 1997年に清田区を分区した際、5条19丁目の一部(清田通より東側)を北野に編入、清田区北野7条1丁目(ごく一部は6条1丁目)となった。
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