東晋軍の抗戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/02 17:07 UTC 版)
327年10月に蘇峻は挙兵し、この際に阜陵県令匡術がこれに加わり、11月には祖約配下の祖渙(祖逖の子)と許柳が蘇峻軍に合流し、次第に数を増やしながら建康へと進軍して行った。この事態に温嶠は兵を動かして建康の防衛に参じようとするが、庾亮は荊州の陶侃の連携を危惧してこれを断り、江州に留まるように指示した。また、孔坦と陶回が早急に阜陵を攻略して江西の諸口を先に確保するように王導に上表した時も、王導は賛成したが庾亮は了承せず、迎撃の作戦が纏まらなかった。 そうこうしている内に12月には蘇峻軍の韓晃に姑孰を強襲され備蓄していた塩米を奪い取られると、蘇峻軍の勢いの前に皇族である彭城王司馬雄と章武王司馬休がたまらず降参して蘇峻軍へと寝返り、戦局はますます悪化した。ここに至ってついに庾亮自身が都督征討諸軍事として指揮を執る事となり、弟の庾翼を石頭城に入れた。この頃、都督徐兗青三州諸軍事の郗鑒も建康援護のために軍を東に動かす許可を求めたが、庾亮は後趙に対する防衛の要であった郗鑒を動かすことを躊躇し、これを認めなかったので郗鑒の軍事行動は劉矩に3,000の兵を与えて建康に送るに留まった。 328年1月には慈湖の戦いで韓晃に司馬流が敗れ、ここでも兵糧を焼き払われ官軍に餓死者が出た。更に牛渚の戦いでも祖渙・許柳の軍勢に官軍は敗北した。2月にはついに蘇峻が首都建康の指呼の間に迫る覆舟山に布陣。この時に陶回が「蘇峻の軍は守備の堅いを石頭城を避けて小丹陽の南の道を通るのでここに伏兵を置くべきだ」と庾亮に提言したが聞き入れられず、その後に陶回の予想通りに蘇峻が小丹陽の南の道を夜半に通り抜けた事を知ると、庾亮は陶回の策を容れなかった事を強く後悔したという。 ついに建康に迫った蘇峻軍に対して朝廷は緊急に詔を発して卞壼を都督大桁東諸軍事に任命して鍾雅、郭黙、趙胤らに蘇峻を迎撃させたが、西陵の戦いで死傷者1,000人余りを出す大敗を喫した。続く青溪柵防衛戦でも卞壼が大将として迎撃に出たが火計を用いた蘇峻の軍勢の前に再び大敗し、卞壼が2人の息子共々討死すると丹楊尹羊曼、黄門侍郎周導、廬江郡太守陶瞻らも戦死。庾亮も宣陽門で戦っていたが、もはや衆寡敵せずついには3人の弟と郭黙、趙胤らと共に温嶠の守る尋陽に落ち延びた。
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