東晋政権に帰順とは? わかりやすく解説

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東晋政権に帰順

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/21 08:59 UTC 版)

陶侃」の記事における「東晋政権に帰順」の解説

永興3年306年)、恩師劉弘病死した。間もなく陶侃の母湛氏も病死したため、辞職して喪に服した。喪が明けると東海王司馬越参軍となった江州刺史華軼上表して陶侃を揚武将軍とし、夏口守備任したまた、甥の陶臻は江州参軍任じられ同じく華軼仕えた。だが、華軼琅邪王司馬睿(後の東晋元帝)と対立していたため、陶臻は災難を被ることを恐れ病気偽り職を辞した。そして、陶侃の下へ至ると「彦夏(華軼の字)には天下憂う大志ありますが、大きな才覚はありません。また、琅邪王とは対立しており、まもなく災禍訪れでしょう」と語った陶侃激怒して陶臻を華軼の下へ送還したが、陶臻は隙を見て東へ逃走して司馬睿の下へ至った司馬睿はこれを大い喜んで彼を参軍任じた陶侃もまた奮威将軍任命され、赤幢・曲のある軺車・鼓吹下賜された。これにより、陶侃華軼不仲になった。 永嘉5年311年)、司馬睿の命により、王敦甘卓周訪率いて河沿いに進軍し華軼攻撃し華軼敗れて討死した。その後陶侃龍驤将軍武昌郡太守任じられた。当時天下大い乱れており、武昌でも山中蛮族長江船舶遮り略奪繰り返していた。陶侃諸将命じて商船偽装し、山賊誘い出させた。賊が予想通り接近してくると、数人生け捕りにした。彼らを尋問すると、西陽王司馬羕の配下であることが分かった陶侃はすぐに軍を派遣して司馬羕へ賊を引き渡す様に迫り、自ら兵を率いて釣台陣地築いて後続となった司馬羕は止むを得ず配下二十名を縛り上げて陶侃のもとに送り陶侃はこれを斬り殺した。これにより、水陸交通滞りなく通じようになったまた、陶侃のもとに帰した流浪者が道にあふれたため、陶侃資財尽くして彼らに施し行い安心して定住できるよう取り計らった。さらに、郡の東に異民族交易するための市場設立し莫大な利を得た

※この「東晋政権に帰順」の解説は、「陶侃」の解説の一部です。
「東晋政権に帰順」を含む「陶侃」の記事については、「陶侃」の概要を参照ください。

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