関東管領・山内上杉家
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「関東享禄の内乱」の記事における「関東管領・山内上杉家」の解説
享禄2年(1529年)正月二十四日条 山内上杉家の家臣・白井長尾景誠が長尾八郎に謀殺される(『続本朝通鑑』)。山内上杉家内部に対立があることを示す。 享禄2年(1529年)八月十四日条 山内上杉氏当主・上杉憲寛が上野国碓氷郡・安中城の安中氏討伐を開始。同盟関係にあった扇谷上杉氏の上杉朝興からは制止されたが、これを無視した。(『続本朝通鑑』) 享禄2年(1529年)九月二十二日条 西氏と小幡氏が上杉憲政を擁立、上杉憲寛に対して謀反を起こした。憲寛は長野氏を随行させながら、安中城から程田(高崎市)に後退。(『続本朝通鑑』) 憲寛による安中氏討伐の背景には、長野氏と安中氏の対立があったと考えられる。 享禄3年(1530年)5月 「左衛門尉」が上野国多胡郡・仁叟寺(吉井町)に対して禁制を与えた。山内上杉氏領国内で戦乱があったことを示す。 享禄3年(1530年)5月21日 上杉憲寛が、高田憲頼の注進により、被官・守山与五郎の戦勲に対して感状を発給。高田憲頼が憲寛側だったこと、上野国甘楽郡・高田城(富岡市)周辺で合戦があったことを示す。 享禄3年(1530年)10月25日 上杉憲寛が、用土新三郎(業国)領の武蔵国男衾郡赤浜を被官・三富平六に与える。用土氏は憲寛に敵対していたことを示す。 享禄4年(1531年)9月3日 上杉憲政が関東管領を継ぎ、憲寛は上総国の宮原(市原市)に退去して、晴直と名を改めた。抗争が終結し、上杉憲政が勝利したことを示す。
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