成氏勢と上杉勢の対峙とは? わかりやすく解説

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成氏勢と上杉勢の対峙

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 23:15 UTC 版)

足利成氏」の記事における「成氏勢と上杉勢の対峙」の解説

上杉勢は、康正元年12月下野天命・只木山の陣が崩壊し康正2年1456年9月武蔵岡部合戦でも敗退したが、長禄3年1459年)頃に五十子陣整備し、さらに河越城川越城)・岩付城岩槻城)・江戸城などの攻守網を完成させた。 一方、成氏も古河城中心として、直臣簗田氏関宿城野田氏栗橋城一色氏幸手城、佐々木氏菖蒲城に置くなど攻守網を形成し両者拮抗するようになった長禄2年1458年)、室町幕府は成氏に対抗するため、将軍義政異母兄政知を新たな鎌倉公方として東下させた。政知は伊豆堀越とどまり、ここに御所をおいたので、堀越公方呼ばれる以後、おもに下野常陸下総上総安房勢力範囲とした古河公方伝統的豪族勢力と、おもに上野武蔵相模伊豆勢力範囲とした幕府堀越公方関東管領山内上杉家扇谷上杉家勢力とが、関東東西二分して戦い続ける。武蔵北部太田荘周辺と、上野東部が主な戦場であったこの間幕府五十子諸大名命じて征討軍を派遣しようとしたが、斯波義敏命令違反追放され長禄合戦)、結城直朝のいる奥羽では国人達が抗争繰り返しており、今川範忠駿河帰還等もあって編成思う様に進まなかった。堀越公方軍事力強化図り、政知の執事渋川義鏡の子・義廉に斯波氏相続させるも、義鏡が扇谷上杉家対立失脚してしまいこちらも失敗した寛正6年1465年)に幕府今川義忠武田信昌関東出陣命じたが、両者がこれに従ったかは不明。 やがて京都では度重なるお家騒動発端として諸大名が2派に分かれて戦い応仁の乱勃発幕府関東軍勢送れなくなってしまった。

※この「成氏勢と上杉勢の対峙」の解説は、「足利成氏」の解説の一部です。
「成氏勢と上杉勢の対峙」を含む「足利成氏」の記事については、「足利成氏」の概要を参照ください。

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