成氏との対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/16 13:58 UTC 版)
ところが、足利持氏の遺児・永寿王丸(足利成氏)を新しい鎌倉公方に擁立する動きが清方の後を継いだ越後守護・上杉房朝や関東諸将の間で起き、室町幕府もこれを容認した。文安4年(1447年)、永寿王丸と憲忠は鎌倉に入って憲忠が関東管領に任命され、2年後の宝徳元年(1449年)に元服して従五位下左馬頭に任命された永寿王丸は8代将軍・足利義成(後の義政)の一字を拝領して「足利成氏」と名乗って正式に第5代鎌倉公方に就任した。だが、成氏が永享の乱・結城合戦で鎌倉公方家に殉じた武将の遺児達を側近として登用するようになると、上杉氏やその家臣団の反発も高まっていった。 宝徳2年(1450年)、相模国鎌倉郡長尾郷が足利成氏の命令を奉じた簗田持助に押領される事件が起きた。この地はその名の通り長尾氏発祥の地であり、そこにある御霊宮は長尾氏一門の祖先祭祀の中心であった。この事態に景仲ら長尾氏一族は激しく憤慨して成氏に激しく抗議したが、成氏側は返還には応じようとしなかった。 同年4月20日、景仲・太田道真が鎌倉に兵500騎を入れて謀反を起こそうとしたが、成氏は事前にこの情報を入手すると、その夜のうちに鎌倉を脱出して江の島に立て籠もった。翌日には由比ヶ浜で両軍は交戦した。長尾・太田軍は惨敗した上に、事情を知らない主君・憲忠までが成氏救出のために小幡氏らを出陣させたことが明らかになったため、景仲と道真は道真の主君である前扇谷上杉家当主・上杉持朝の糟谷館に逃げ込んだ。憲忠は事件に全く関与していなかったが、襲撃したのが長尾・太田の兵であると知って謹慎してしまった(江の島合戦)。 その後、成氏は鎌倉に戻り、憲忠も10月に入って職務に復帰、その懇願によって景仲らの罪も赦免された。ところが、その後も成氏側・憲忠側双方の武士が対立陣営の所領を押領する事件が頻発した。このため、憲忠・持朝は成氏打倒を計画する。だが、享徳3年12月27日(1455年1月15日)、景仲が長尾郷の御霊宮に泊りがけで参詣に出ていた夜に、憲忠は成氏の御所において、成氏軍に討たれてしまう。この時、上杉氏の家宰職は江の島合戦で失脚した景仲に代わって義兄弟の長尾実景が任じられていたが、実景も嫡男・景住と共に成氏方の襲撃によって殺害された。
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