対立陣営
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/20 14:54 UTC 版)
「チャイコフスキーとロシア5人組」の記事における「対立陣営」の解説
グリンカには国外からも注目が集まり、リストやベルリオーズらも彼の音楽を賞賛し、後者はさらに論説で彼を「同時代の傑出した作曲家」のひとりと評した。しかしながら、ロシア貴族の目はいまだ国外の音楽のみに向けられていた。音楽自体が社会の階層構造と結びついており、大衆の暮らしにある程度の役割を果たす以外は依然として上級階級の特権であると考えられていたのである。貴族は膨大な量の音楽演奏を彼らだけの娯楽として楽しみ、クララ・シューマンやリストといった芸術家を自らの元へと招いていた。しかし継続的に演奏を行う団体もなければ、批評誌や多くの人が待ち望む新作も存在しなかった。音楽教育に関しても一定の水準を満たすものは提供されておらず、一部の都市では個人指導を受けることができたとはいえ、効果はあがらないのが普通であった。質の良い教育のためには国外に出ざるを得なかったのである。作曲家でピアニストのアントン・ルビンシテインが1859年にロシア音楽協会、3年後の1862年にサンクトペテルブルク音楽院を創設したことにより、こうした状況を打開すべく大きな歩みがもたらされたといえる。しかし、これが同時に激しい論争を生むことになる。こちらの陣営にピョートル・チャイコフスキーという若き文官がいた。
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