対等意識とキー局指向
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しかしネットワーク確立に向けた斎藤と高橋の幾多の交渉で営業戦術を磨いたMBS社内には、いつしか在京キー局との対等意識が育まれていた。そしてそれはMBSが在京局と同様の本格的な全国発信を行える在阪唯一のテレビ局を目指すという、「キー局指向」へと昇華していった。斎藤もテレビ営業を率いる立場でキー局NETやフジテレビ、また「毎日新聞ニュース」の裏送りで関係のあったKRT改めTBS、そして後にクロスネットを結んだ首都圏第5局東京12チャンネルと対等の立場で渡り合った。 「MBSニュース#歴史」も参照 開局後数年間、NET系という系列の枠を超えてMBSとフジテレビは相互にテープネット番組のやり取りを行った他、第35回選抜高等学校野球大会(1963年)のスポンサードネットやごくわずかなミニ番組などでは例外的にTBSとも相互取引していた。これは高橋と斎藤がフジテレビ・TBSとの関係をあきらめなかった故の産物だった。 「高橋信三#MBSテレビ開局」および「在阪テレビジョン放送局#在京放送局(キー局)との関係」も参照 1963年(昭和38年)10月改編で、NETは前年12月にレギュラー化されネットしていた『サモン日曜お笑い劇場』(現・『よしもと新喜劇』)が視聴者の支持を得られなかったとして、この年の6月に立ち上げられた『大正テレビ寄席』を『お笑い劇場』の放送時間だった日曜12時台に移動して打ち切る。 詳細は「大正テレビ寄席#毎日放送の決断」および「高橋信三#大正テレビ寄席打ち切り事件」を参照 NETはスポンサーの大正製薬が同時間帯の全国ネット番組を『テレビ寄席』に一本化するとして、新喜劇放送を打ち切るように指示するが、斎藤はMBSと吉本興業の社運がかかった新喜劇の放送を存続するため、逆に「両番組の放送時間がかち合ったので例えローカルになっても関西では新喜劇をやる。スポンサーとして残ってくれ」と大正を説得、最終的に高橋が大正社長上原正吉の首を縦に振らせ存続が決まった。 詳細は「大正テレビ寄席#お笑い劇場とダイビングクイズ」および「よしもと新喜劇#地方への番販ネットと打倒朝日放送」を参照 「毎日放送#江戸笑芸番組に対する扱い」も参照 1968年(昭和43年)、東京12チャンネルが破綻寸前となり、MBSは後に受け皿となる制作会社「東京12チャンネルプロダクション」(現・テレビ東京)に出資する。MBSは自社制作番組をNETだけでなく東京12チャンネルにも流すようにする。翌1969年(昭和44年)10月改編で、NETでスタート当初の3ヶ月間放送した『ヤングおー!おー!』が「関東での知名度がほとんどないレギュラー陣ではTBSと戦えない」という理由で一方的に打ち切られる。斎藤は高橋の特命を受け、東京12チャンネルプロダクションに指示してネット先を変更、さらに放送時間も変更して継続させた。その結果関東での視聴率こそ伸び悩んだものの番組は「西の笑点」の異名を取るほどの大ヒットとなり、1982年(昭和57年)10月改編で打ち切られるまで、13年続いた。 1971年(昭和46年)12月の『23時ショー』打ち切り事件では、社長として最終決断をした高橋を営業の立場から支え、打ち切り後の同枠を東京12チャンネルからの遅れネットで埋めた。 詳細は「お色気番組#概要」を参照
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