大正テレビ寄席打ち切り事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:11 UTC 版)
「高橋信三」の記事における「大正テレビ寄席打ち切り事件」の解説
@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}一方で在京局、特にNETに対する対等意識は年々強まり、NET発全国ネット番組のネット受けを拒否する事態にまでなっていった。[要出典] 1963年(昭和38年)7月、MBSは上演される演芸のスタイルが受け入れられず低視聴率に喘いでいたNET発の『大正テレビ寄席』を打ち切り、グロリア魔法瓶製作所提供の自社制作番組枠とした。10月改編時、NETは『テレビ寄席』と『お笑い劇場』の放送時間を同一にし、逆にMBS発の『サモン日曜お笑い劇場・吉本新喜劇』を打ち切った。 また、『テレビ寄席』が10月改編で当初の水曜日から日曜日に移動したため、空いた水曜日昼枠をMBS制作全国ネット枠とさせ(グロリア魔法瓶提供のまま関西ローカルから昇格)、1965年(昭和40年)の『アフタヌーンショー』立ち上げまで続けた。この枠から生まれたのが『ダイビングクイズ』で、『アフタヌーンショー』のスタートと共に日曜日午後2時台の放送となり、『お笑い劇場』から『がっちり買いまショウ』『素人名人会』と続くMBSの日曜昼間プラチナ枠の掉尾を飾って10年間続いた。 詳細は「ダイビングクイズ#放送時間」および「大正テレビ寄席#お笑い劇場とダイビングクイズ」を参照 ただし、互いに打ち切り合った時点では、『お笑い劇場』は大正製薬が提供を継続した一方、『テレビ寄席』は一時的に日本製麺に交代していたことから(出典:テレビ朝日社史 ファミリー視聴の25年 - 全国朝日放送(現:テレビ朝日)、374ページ、1984年)、大正製薬・NET・MBS間でどのような扱いが持たれたかは不明。 また、1965年4月から8月まで一時的に独自にサンヨー食品を提供スポンサーとして『タンメンお笑い寄席』に改題の上で『テレビ寄席』を遅れネットしていた(出典:毎日新聞・大阪版、1965年4月17日、テレビ欄広告、及びザ・テレビ欄 大阪版 1964〜1973、テレビ欄研究会[要ページ番号])。
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