大正デモクラシー衰退期の忠臣蔵ブーム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 04:50 UTC 版)
「忠臣蔵」の記事における「大正デモクラシー衰退期の忠臣蔵ブーム」の解説
大正デモクラシーの衰退期には明治維新後第二の忠臣蔵ブームが起こり、大正5年(1916年)に福本日南が中心となって設立した中央義士会がの活発な活動や、忠臣蔵の講談や浪花節がラジオで活発に放送された。 しかしこのころには同時に、忠君愛国的な「義士」像に対する批判や、人間的政治的視点を盛り込んだ小説も登場している。1926年、野上弥生子は『大石良雄』において、そのときどきの感情に突き動かされ、最終的に復讐を義務・責任と感じる内蔵助像を描く事で内蔵助の偶像化を否定した。これは近代的精神が抑圧され挫折させられた大正末期の知識人の屈折した内面を表現したものであろう。また1927年から新聞連載された大佛次郎の『赤穂浪士』は昭和の金融恐慌にはじまる社会不安を背景として書かれ、腐敗した封建的な官僚主義政治に対抗する大石内蔵助像を描いてベストセラーになった。
※この「大正デモクラシー衰退期の忠臣蔵ブーム」の解説は、「忠臣蔵」の解説の一部です。
「大正デモクラシー衰退期の忠臣蔵ブーム」を含む「忠臣蔵」の記事については、「忠臣蔵」の概要を参照ください。
- 大正デモクラシー衰退期の忠臣蔵ブームのページへのリンク