大正デモクラシーと相次ぐ恐慌
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:38 UTC 版)
「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「大正デモクラシーと相次ぐ恐慌」の解説
詳細は「米騒動」、「大正デモクラシー」、「民本主義」、「関東大震災」、「第二次護憲運動」、および「金融恐慌」を参照 第一次世界大戦により、欧州諸国が軍需生産に傾倒せざるを得ない状況があり、日本は欧州やその植民地に工業製品を輸出する状況が生まれた。重化学工業が進展したのもこの時代である。日本は大戦景気に沸き、一気に債権国となって市井には成金が生まれ、はじめて工業生産が農業生産をうわまわった。しかし、第一次世界大戦が終わると、欧州諸国が工業製品の生産を再開したため、国際競争力に欠ける当時の日本は生産過剰に陥り、戦後恐慌が始まった。 第一次世界大戦では、連合国側は大戦を民主主義(デモクラシー)と専制主義(オートクラシー)との戦いであると意義づけた。こうした事情のもとで、大戦中から世界的にデモクラシーの気運が高まった。 1916年、吉野作造はデモクラシーを「民本主義」と翻訳したうえで、民衆の利益と幸福をめざした政治を進める必要があると主張した。彼の説く民本主義は、知識人はじめ言論界でも広い支持を集め、藩閥・官僚・軍部など特権的な勢力による政治を批判し、議会中心の政治を確立しようという動きを方向づけた。このような新しい政治思潮を大正デモクラシーという。 こうしたなか、寺内正毅内閣が総辞職すると、元老たちも政党内閣でなくては国民の支持が得られないと判断し、1918年、「平民宰相」原敬による本格的な政党内閣が成立した。原は、選挙権の拡張などを行ったが1921年、東京駅で暗殺された。原の後継となった高橋是清内閣は短命に終わり、以後、2年間非政党内閣が続いた。一方経済面では戦後恐慌の痛手が回復しないまま1923年に関東大震災が起こり、それに端を発した震災恐慌が追い討ちをかけ、不良債権が銀行に蓄積され、このときの震災手形はのちの金融恐慌の原因となっていった。 1924年清浦奎吾内閣が成立すると護憲三派は第二次護憲運動を進め、加藤高明を首相とする護憲三派による政党内閣が復活し、幣原喜重郎による協調外交と軍縮政策を進め、1925年、普通選挙が実現した。その結果、25歳以上の男性には、納税額に関係なく選挙権があたえられ、約300万人だった有権者は4倍の約1,200万人に増大した。この結果、政治の民衆化は進展したが、女性の参政権は認められなかった。 1927年、第1次若槻禮次郎内閣の大蔵大臣片岡直温の失言により、金融恐慌が発生したため、後を継いだ田中義一内閣の蔵相、高橋是清はモラトリアムを発動し、事態の収拾を図った。銀行の倒産が相次いだため、預金が三菱・三井・住友といった財閥に集中していくようになった。 この時代にはまた、女性の職場進出が進み、都市問題・住宅問題・労働問題が生ずるとともに義務教育就学率が99パーセントをこえ、高等教育も充実して知識層が増大し、社会における中間層が形成された。ラジオ放送が開始されるなどジャーナリズムがさらに発達、また、大衆雑誌、文庫本、円本などがさかんに出版され、日本でも文化の大衆化がすすんだ。
※この「大正デモクラシーと相次ぐ恐慌」の解説は、「近代から現代にかけての世界の一体化」の解説の一部です。
「大正デモクラシーと相次ぐ恐慌」を含む「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事については、「近代から現代にかけての世界の一体化」の概要を参照ください。
- 大正デモクラシーと相次ぐ恐慌のページへのリンク