MBSテレビ開局
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:11 UTC 版)
1953年(昭和28年)、NJB専務取締役に昇格。1955年(昭和30年)、大阪テレビ放送(OTV、現在のABCテレビ)をABCとの合弁で設立・開局したものの、当初から独自での開局にこだわり、1958年(昭和33年)近畿圏の民放テレビが4局に増やされる機会を狙って合弁解消を申し入れた。このとき、OTVの引き取り先をめぐってABC社長飯島幡司と杉によるジャンケンによるくじ引きが行われ、その結果OTVはABCに引き取られることが決まる。高橋にとって悲願となる単独でのテレビ開局が実現する形となった。NJBは社名を現在まで続く『毎日放送』に改め、1959年(昭和34年)3月1日、テレビ放送が本放送を開始した。 詳細は「ネットチェンジ#毎日放送からみた歴史」を参照 しかし、MBSテレビは当初希望していたラジオ東京(KRT、現在のTBSテレビ)との東阪間ネットを断られ、またニッポン放送専務鹿内信隆との親交から実現しかけたフジテレビとのネットワークも社長水野成夫が先に開局した大関西テレビ(KTV、現在の関西テレビ)の設立母体だった産経新聞社社長に就いた絡みでKTVに奪われてしまう。結局民間初の教育テレビ局として準備が進められていた日本教育テレビ(NETテレビ。現在のテレビ朝日)との間でのネットワークを組むこととなり、MBSテレビは劣勢を余儀なくされたが、これを機に在阪局随一のキー局を目指し、在京各局と対等に渡り合う体制作りを進めた。 詳細は「斎藤守慶#MBSテレビ開局と腸捻転」および「関西テレビ放送#フジテレビとの関係」を参照 「前田久吉#産経新聞関連」も参照
※この「MBSテレビ開局」の解説は、「高橋信三」の解説の一部です。
「MBSテレビ開局」を含む「高橋信三」の記事については、「高橋信三」の概要を参照ください。
- MBSテレビ開局のページへのリンク