MBSテレビ開局と腸捻転
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/01 00:05 UTC 版)
「斎藤守慶」の記事における「MBSテレビ開局と腸捻転」の解説
斎藤は立ち上がったばかりのMBSテレビ営業課で、高橋らとともにスポンサーや広告代理店との交渉を担当。MBSテレビとラジオ東京テレビ(KRT、現在のTBSテレビ)による東阪間ネットワーク確立に向けて奔走した。しかし、KRT側の交渉担当者だった常務今道潤三は、「KRTはOTVとネット協定を結んでいる。OTVを引き継ぐのがABCであるなら、ABCとネットを組むのが当然の流れ。ネット番組はそう簡単には動かせない」としてMBSテレビとのネットを拒否した。 詳細は「ネットチェンジ#毎日放送からみた歴史」を参照 斎藤は高橋に相談、高橋はラジオの『FOLネット』(NJB、ニッポン放送、ラジオ九州によるスポーツ中継専用のネット)を通じて親交のあったニッポン放送専務鹿内信隆に掛け合う。当時、東京でも民放第3局フジテレビジョンと第4局日本教育テレビ(NET、現在のテレビ朝日)の開局が既に決まっていて、鹿内の勤めるニッポン放送が出資したフジテレビとネットを確立しようという目論見だった。当時は近畿圏第3局として先に開局が決まっていた大関西テレビ(KTV、現在の関西テレビ)のキー局としてNETの名前が浮上していたこともあり、MBSとフジテレビのネット樹立はいけるとの手応えを掴んでいた。 詳細は「前田久吉#産経新聞の売却」および「全国ラジオネットワーク#補足」を参照 「RKB毎日放送#ネットワークと放送エリア」も参照 しかし、大関西テレビの筆頭株主だった産業経済新聞社は同年、一時別会社となっていた東京本社を吸収合併したことで経営が悪化。創業者の前田久吉が退き、フジテレビと文化放送の社長を既に兼務していた水野成夫が産経新聞社長も兼務することになって流れが変わる。これで大関西テレビとフジテレビの間のラインは決定的になり、FNSの基礎となる番組供給協定を交わした。これにより、MBSとフジテレビによる完全ネットも不可能になってしまった。 詳細は「関西テレビ放送#フジテレビとの関係」および「フジネットワーク#沿革」を参照 結局、MBSがネットを組める相手はNETしかなくなり、MBSテレビの開局も当初の予定から3ヶ月遅れてやはりNET系列結成メンバーとなる九州朝日放送(KBC)と同時の1959年(昭和34年)3月1日になった。NETのニュースは開局当初から朝日新聞に製作が委託されていて、1964年には朝日新聞社がNETの親会社の一角に加わるなど、MBSにとっては、OTV時代のABCと同様の取り組みにくい相手となった。 詳細は「オールニッポン・ニュースネットワーク#ネットワークの形成」および「九州朝日放送#ネットワークの変遷」を参照 「テレビ朝日#沿革」も参照
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