MBSアナウンサー時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 06:49 UTC 版)
すみからすみまで愛なのね(1996年)メインパーソナリティの角が脳梗塞の発症で降板した後に、パーソナリティとして番組を引き継いだ。
※この「MBSアナウンサー時代」の解説は、「伊東正治」の解説の一部です。
「MBSアナウンサー時代」を含む「伊東正治」の記事については、「伊東正治」の概要を参照ください。
MBSアナウンサー時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 03:15 UTC 版)
1971年にアナウンサーとして毎日放送へ入社。同期のアナウンサーに野村啓司と近藤光史(両者とも現在はフリーアナウンサー)、その他の同期に元テレビプロデューサーで現在光明寺住職の御藤良基、現在毎日放送代表取締役会長を務める河内一友。うち、過去に野村と近藤の若手アナウンサー三人組でラジオのトーク番組を担当していたこともあり、大まかには野村は気さくで砕けた役、近藤はボケと嫌味な役、平松は冷徹なツッコミと沈着冷静な進行などの役割などで活動を行っており。各々フリーとなった現在でもそのキャラクターは引き継がれている。 入社2年目の1972年から1970年代の後半までは、MBSラジオの競馬中継で実況を担当。キタノカチドキ、テンポイントなどのレースを実況した。1976年から1994年まで毎日放送の夕方のローカルニュース番組『MBSナウ』のメインキャスターを務めるなど、数々の番組に出演。毎日放送制作一部副部長兼国際部副部長も務めた。 1995年6月から3年間、毎日放送ニューヨーク支局へ支局長として赴任。1998年7月に帰国してからは、アナウンサーとしてダンロップフェニックストーナメントの中継実況などを担当した。また、毎日放送が主催する『サントリー1万人の第九』では、通算で7回司会を務めた。 2001年7月よりソフト企画局センターへ異動した後に、チーフプロデューサーを務めた。その後は2003年7月より1年間にわたり役員室秘書部長、2004年7月から2007年10月14日まで役員室長、同年10月15日から人事局専任局長(大阪市長選挙への出馬(後述)が取りざさされたための人事措置で、出馬表明後に休職)を務め、同年11月3日に定年まで1年の期間を残して退職。アナウンサー職から離れた後も、ラジオ番組にパーソナリティ・アシスタント代理として年に2〜3回出演することがあった。 MBSラジオで『それゆけ!火曜・やしきたかじん』を放送していた時期には、正午のニュースを担当することが多く、メインパーソナリティであったやしきたかじんとニュースの内容に関して討論を頻繁に交していた。そのため、当時のこの時間の「毎日ニュース(現・MBSニュース)」は、この番組に関しては時間を長めに取って放送していた。また、この事が縁でたかじんと親交を深め、大阪市長就任(後述)後はたかじんの冠番組にゲスト出演している。また、たかじんプロデュースの「Koi-con」に大阪府知事(当時)の橋下徹とともにゲスト出演をしたり、橋下との"非公式会談"をたかじんの自宅マンションで行ったりもした。ただし、たかじん逝去時の『そこまで言って委員会』追悼特番やお別れ会では司会を務めていない(いずれも辛坊治郎、山本浩之、宮根誠司の3人が担当)。 2000年10月16日放送の『筑紫哲也 NEWS23スペシャル 中国の朱鎔基首相があなたと直接対話』(TBS制作・JNN系列全国ネット)では、大阪会場からの質問の進行役を務めた。
※この「MBSアナウンサー時代」の解説は、「平松邦夫」の解説の一部です。
「MBSアナウンサー時代」を含む「平松邦夫」の記事については、「平松邦夫」の概要を参照ください。
- MBSアナウンサー時代のページへのリンク