アナウンサーとして
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2018年7月13日に、赤坂サカスで開催の『TBS夏サカス2018 デジタル&グルメパーク』でデビュー。その後は、スポーツ中継向けの実況練習を重ねながら、『ビビット』『アッコにおまかせ!』(いずれもTBSテレビ系列全国ネットの生放送番組)などにレギュラーで出演していた。2021年6月に一部週刊誌により女性問題が報じられてからは、スポーツアナウンサーとしての活動や、生放送番組のナレーションに事実上専念している。
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アナウンサーとして
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「ボブ・シェパード」の記事における「アナウンサーとして」の解説
第二次世界大戦後、シェパードはセント・ジョーンズのフットボールとバスケットボールの試合の場内アナウンサーとして雇われ、1990年代までその仕事を続けた。 1940年代後半、エベッツ・フィールドで開催されたオール・アメリカ・フットボール・カンファレンス所属のブルックリン・ドジャース (AAFC)のアナウンサーになった。 1948年にドジャースのフットボールの試合でベーブ・ルースに敬意を表したとフロントオフィスの関係者が聞きつけたことでヤンキースからの注目を集めた。そしてヤンキースの場内アナウンスの仕事をオファーされたが、「チームでの仕事が自身の教育活動を妨げないこと」を条件とした。3年後にヤンキースが代役を雇うことに同意したことでようやくこのオファーを受けた 。 シェパードは1951年4月17日にヤンキースのホーム開幕戦でデビューし、ボストン・レッドソックスに5対0で勝利した。 彼が最初に名前を読み上げた選手は、この試合でレッドソックスの1番に入ったヤンキースの主軸でこの試合も4番センターで先発出場していたジョー・ディマジオの実弟であるドム・ディマジオだった。また、1951年はジョー・ディマジオの現役最終年であり、ミッキー・マントルがデビューして共に外野を守った唯一の年だった。 尚、この試合では後にアメリカ野球殿堂入りを果たす両チーム併せて8人の選手が先発出場していた (ヤンキースの2番ショート:フィル・リズート、3番ライト:マントル、4番センター:ディマジオ、5番キャッチャー:ヨギ・ベラ、6番ファースト:ジョニー・マイズ、レッドソックスの3番レフト:テッド・ウィリアムズ、6番セカンド:ボビー・ドーア、7番ショート:ルー・ブードロー)。 1951年の給与は、ゲームあたり15ドル、ダブルヘッダーは17ドル だった。 シェパードはアナウンスをする上で「3つのC」を大切にしていると1999年のCNNとのインタビューで語っている。内容はClear: 明朗、Concise: 簡潔、Correct: 正確性である。 シェパードの独特のアナウンススタイルはヤンキースタジアムのスタジアム体験の不可欠な要素になっていった。半世紀以上の間、各ゲームは彼のトレードマークともいえる名台詞の "Good afternoon (evening)...ladies and gentlemen...and welcome...to Yankee Stadium" 「こんにちは(こんばんは)...ご列席の皆様...そしてようこそ...ヤンキースタジアムへ」 で始まった。そして、スターティングラインナップ発表時には "Your attention please, ladies and gentlemen." He introduced every player, Yankee or visitor (as described on his Monument Park plaque), "with equal divine reverence." 「ご列席の皆様、どうぞよろしくお願いします。すべてのプレーヤー、ヤンキースもビジターの選手にも(モニュメントパークのプラークにその名を刻んだ名選手達に対する様に)平等に神の畏敬の念をもってお迎え下さい」 と紹介した。 シェパードのアナウンスはその日の初打席では「ヤンキース、一塁手、23番、ドン・マッティングリー、23番」の様に、選手の守備位置、背番号、名前を伝え、最後に背番号を繰り返した。それ以降の各打席では守備位置と名前(「一塁手、ドン・マッティングリー」)というものだった 。 また、ヨギ・ベラ(本名:ローレンス・ピーター・ベラ)などの例外を除いて、本名とかけ離れたニックネームを避けてコールした。「オイル・カン・ボイド」ではなく「デニス・レイ・ボイド」、「キャットフィッシュ・ハンター」ではなく「ジム・ハンター」と必ず本名、あるいはドナルド・アーサー・マッティングリーをドン・マッティングリーの様に本名を短縮した形でアナウンスしている 。 シェパードは発表するお気に入りの名前のリストをランキング形式で発表した。リストは上から順にミッキー・マントル、長谷川滋利、サロメ・バロハス、ホセ・ヴァルディヴィエルソ、アルバーロ・エスピノーザだった。この様に多くのラテン系プレーヤーをはじめとした非アングロ・サクソン系の名前に特別な愛着を示した。 理由は「アングロサクソン系の名前はあまり面白みがない」とシェパードは述べている。また、「 (共にアングロサクソン系の名前である) スティーブ・サックスやミッキー・クラッツの何が面白い?」 とも語っている。 しかし、ミッキー・マントルは彼の1番のお気に入りのままであった。理由は並外れた実績と先述の通り謂わば同期であることに加え、ファーストネームとラストネームが共に「M」から始まり韻を踏んでいるので心地いいからだと答えている。マントルはかつて「彼 (シェパード) がヤンキースタジアムで私を紹介するたびに、私は背骨を震わせた」シェパードに語った。そしてシェパードはマントルに「私も同じだ。」 と答えたという。 シェパードはすべての名前を正しく発音することに大きな誇りを持っており、正しい発音や好みの発音に疑問がある場合は、プレーヤーに直接確認するようした。彼は、キャリアの早い段階でワシントン・セネターズに在籍していたウェイン・テウィリガー(Wayne Terwilliger)の名前を 「 『Ter-wigg-ler』と言うのではないかと心配した」とつまずいたことからであると後年回想した 。 しかし、ホルヘ・ポサダの名前を間違えたことで知られる。ポサダは1995年シーズン後半にコロンバス・クリッパーズから昇格し、1995年のアメリカンリーグディビジョンシリーズのシアトルとの第二戦でウェイド・ボッグスの代走として初出場した。まだポサダに会っていないシェパードは、彼の姓の末尾が「a」ではなく「o」だと勘違いして「ポサド」とアナウンスした。ポサダの友人であるデレク・ジーターはこの珍しい間違いにすぐに気付き、これを面白がった。それ以来、ジーターはポサダを「サド」と呼んでいる 。 また、シェパードは1956年にニューヨークジャイアンツの本拠地がポロ・グラウンズからヤンキースタジアムに移動した時からジャイアンツのゲームも担当した。 1976年にニュージャージー州イーストラザフォードのジャイアンツ・スタジアムに移動した後もアナウンスを担当した。 シェパードはキャリアを通じて、年齢を明かすことを拒否したことで有名で、ジム・バウトンが2度にわたって質問をしたときに、突然インタビューを打ち切る など徹底した。誕生日が10月20日であることを明かしているが(おそらくミッキーマントルに話したため )、誕生年を公に認めることはなかった。彼の強迫的なまでの秘密主義は、ヤンキースのオーナーであるジョージ・スタインブレナーが彼を「年を取りすぎている」と考えて解雇されることを恐れたから生じたものだと推測されていたが、シェパードはそれを否定した。 この推測についてシェパードは「(スタインブレナーは)私が何歳だったのか疑問に思ったことは一度もない」「彼は私が57年ほど毎日球場にいることを知っているだけだ。」 と語っている。実際、シェパードは、「ゴールドスタンダード」と呼ばれ、気が短いことで知られるスタインブレナーから批判されたことのない唯一のヤンキースの従業員だったのかもしれないと言われている。 何年にもわたって、シェパードは他の複数のチームや会場のアナウンサーも務めた。その中には、 アデルファイ大学 アメリカン・フットボール・リーグのニューヨーク・タイタンズ ランダルズ島のダウニングスタジアムでのWFLニューヨーク・スターズ ヤンキースタジアムでのAAFCのニューヨークヤンキース ヤンキースタジアム、ダウニングスタジアム、ジャイアンツスタジアムでのNASLニューヨークコスモス ミチエ・スタジアムとジャイアンツスタジアムでの陸軍ブラックナイツフットボールゲーム ポログラウンズ、ジャイアンツスタジアム、ベテランズ・スタジアムでの複数の陸海軍ゲーム など多岐にわたる。これについてシェパードは「あなたが名前を呼んで欲しいのなら、私は呼ぶ」と述べている 。
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