合戦の場所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/09 10:23 UTC 版)
軍記物(フィクション)である『太平記』により「四條畷(四條縄手)」の戦場名が有名だが(「畷」は農地と農地を繋ぐ間道のこと)、史実で戦闘が起こった場所は河内国佐良々(さらら、讃良郡)の「北四条」という場所である(『薩摩旧記』足利直義書状および『古今消息通』佐野氏綱軍忠状)。中世での北四条がどこだったか厳密には不明だが、少なくとも江戸時代には讃良郡北条村に「北」「四条」「辻」の3つの集落が存在し、実際、『河内志』(享保12年(1727年)開板)所収『讃良郡古蹟志』でも「四条畦戦場〈在北四条邑、/邑属北条邑〉」と、北条村の中での「北四条」が四條畷の戦いの古戦場だったことを記している。明治時代になってから、北条村が四条村(現在の大東市東部)と改称され、北四条が大字北条になるという、地名の逆転現象が起きた。現在の大阪府大東市北条に当たる。 かつては大阪府東大阪市の四条(縄手)ではないかという説もあったが、ここは旧郡名でいえば河内郡四条村であって、讃良郡でも北四条でもないから、明らかに誤りである。ただ、長野という人物が、明治19年(1886年)に「楠の井手」なる場所を掘ったら人馬の遺骨や武具が出てきたと主張したが、長野は供養のためにそれらの遺骨・遺品をまた埋め直したと述べ、そのため証拠品は現存せず、事実かどうか不明である。 現在の大阪府四條畷市は、小楠公御墓所という伝説がある場所に、明治23年(1890年)、四條畷神社が建立されたことから発展して市名になったもので、史実として四條畷の戦いと関係があるかは不明。ただ、貝原益軒が元禄2年(1689年)に旅行した時は、既に正行・正時の墓と称される墓があったという(『南遊紀行』)。
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