豊明市と名古屋市緑区の「本家争い」
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「桶狭間の戦いの戦場に関する議論」の記事における「豊明市と名古屋市緑区の「本家争い」」の解説
豊明市と名古屋市緑区の「本家争い」は、今川義元戦死の地が大脇村(屋形はさま)に属していたか桶廻間村(田楽坪)に属していたかについて、後年のそれぞれの所属自治体(愛知郡豊明村→同郡豊明町→豊明市、知多郡有松町→名古屋市緑区)が自らの行政区域に属すると主張しあうことで、繰り広げられてきたものである。義元敗死の地をもって古戦場と見なす考えかたから、屋形はさまと田楽坪は、現在それぞれ「桶狭間古戦場伝説地」・「桶狭間古戦場跡(桶狭間古戦場公園)」として、それぞれの自治体から史跡の扱いを受けている。 昭和時代の初めに「桶狭間古戦場の碑」が鞍流瀬川の底から引き上げられ、この頃より有松町の田楽坪を今川義元戦死の地とする主張が本格的になったとみられることから、「本家争い」が表面化したのは昭和時代以降の、比較的近年であるともいえる。それぞれが当の大脇村・桶廻間村であった江戸時代に、桶狭間古戦場が大脇村地内の「屋形はさま」に属するものであるという見解が一般的であったのは先にみたとおりで、このことに桶廻間村が異論を唱えていたかどうかははっきりしない。確かに、1816年(文化13年)の建立とされる「桶狭間古戦場の碑」、建立年代不詳の「駿公墓碣」の存在は、田楽坪が戦いの中心地もしくは今川義元最期の地であるという、江戸時代後半にそうした見解が芽生えていた可能性を示しており、『桶梜間合戦名残』(文政年間(1818年 - 1830年)?)にも、桶廻間村内のハイ山(生山)を敗軍の地だとする有松村の古老の話が紹介されている。しかし他方で、「屋形はさま」で行われていた旧暦5月19日の法要を桶廻間村の長福寺も「年中行事」として重要視し、住職は五条印金の袈裟という特別な装束を身にまとい念仏回向に臨んだといわれるほか、豊明市の桶狭間古戦場伝説地に残る碑柱の多くは明治時代から大正時代にかけて有松村・有松町の官民によって建碑されたものであって、「屋形はさま」が桶廻間村・有松町の人々にとっても長年崇敬と供養の対象であり続けたことは確かである。 大脇村(およびその支郷の落合村)と桶廻間村(およびその支郷の有松村)とは隣村同士で共に知多郡に属していたが、大脇村は1874年(明治7年)7月に東阿野村・落合村と合併して知多郡栄村(さかえむら)に、栄村は1889年(明治22年)10月1日に大沢村・東阿野村・沓掛新田と合併の上で行政村としての豊明村となり、この時点で知多郡から愛知郡に編入される。旧2村の間に郡界・町村界が厳然と引かれ、それがそのまま豊明市と名古屋市緑区の境界に引き継がれて久しく、心理的な壁もしくは隔たりは、豊明市にとっては国の指定まで受けている古い由緒を名古屋市緑区に侵されているという不快感となり、名古屋市緑区にとっては本来は有松町のものである桶狭間の名を豊明市に横取りされてきたという不満となって、それぞれ表面化するに至るのである。しかし、本来の大脇村と桶廻間村の関係をみると、大脇村にある清涼山曹源寺は桶廻間村にも相当数の檀家を持ち、豊明市の有形文化財に指定されている「曹源寺山門」は桶廻間村の住民梶野清右衛門からの寄進であるほか、桶廻間村の庚申堂で開かれていた祭りには大脇村からも大勢の参拝者があったといわれ、このように文化的な交流が密であったことはもとより、長福寺の動きからも分かるように、両住民の間には対立よりむしろ合戦の故地としての連帯意識があり、共同で戦死者を悼み冥福を祈る心情が一般的に存在していたものとみられる。[独自研究?] 長いあいだ続いてきた「本家争い」によって、合戦の場所が実際以上に不確定と思われてきた面も否めず、近年に至り、観光面で熱心に宣伝されてこなかったことを改めるべく名古屋市緑区と豊明市は桶狭間の戦い関連のイベントを合同で盛り上げてゆくことを考えているとのことである。観光マップである「桶狭間の戦い広域マップ」は、名古屋市緑区役所と豊明市役所が合同で制作したものである。
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