桶狭間古戦場伝説地
附 戦人塚
名称: | 桶狭間古戦場伝説地 附 戦人塚 |
ふりがな: | おけはざまこせんじょうでんせつちつけたりせんにんづか |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 愛知県 |
市区町村: | 豊明市栄町 |
管理団体: | 豊明市(昭13・4・21) |
指定年月日: | 1937.12.21(昭和12.12.21) |
指定基準: | 史2,史7,史8 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | 東海道ノ南方丘陵ニ圍マレタル狹少ナル地域ニシテ永祿三年五月今川義元ガ織田信長ノ爲ニ亡サレタル處ト傳ヘラレ七表石、弔古碑、今川義元墓、松井宗信墓及桶狹間古戰場阯ノ碑アリ。七表石ハ五寸乃至六寸角ノ石柱ニシテ今川上總介義元戰死所ト刻セルモノ及松井八郎冢或云五郎八ト刻セルモノニハ明和八年ノ記銘アリ。士隊將冢ト刻セル五基ニハ記年ヲ缺ケルモ造立者並ニ筆者氏名ヲ刻セリ。弔古碑ハ文化六年ノ建設ニシテ尾張藩秦鼎ノ撰文ヲ刻ス。他ハ明治大正年間ノ建設ニ係ルモノナリ。又字前後ノ地ニ戰人塚ト刻セル碑アリ此地曹源寺快翁和尚ガ桶狹間ノ役ニ於ケル戰死者ヲ葬リ供養セシト傳ヘラル。 |
桶狭間古戦場伝説地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 00:16 UTC 版)
「桶狭間の戦いの戦場に関する議論」の記事における「桶狭間古戦場伝説地」の解説
桶狭間古戦場伝説地(おけはざまこせんじょうでんせつち)は、豊明市栄町南舘3番地・11番地にある戦跡(伝承地)で、国の史跡に指定されている(位置)。桶狭間の戦いの際に今川義元が敗死した推定地のひとつとして「屋形はさま」の名で古くから知られている。現在では公園(豊明市栄町南舘11番地)と香華山高徳院境内(豊明市栄町南舘3番地)の一部で構成される。 『寛文村々覚書』(寛文年間(1661年 - 1673年))には、英比庄大脇村の項に「一今川義元墓所 長百間程、横五拾間程構、当村石塚山之内ニ于今有之。」という記述がみられる。また、『尾州古城志』では、大脇村には今川義元陣所の遺構とされる「石塚山塁跡」が残されているという。江戸時代前期の地誌ではこのように義元の本陣地や戦死地を大脇村内の「石塚山(いしづかやま)」とする記事がいくつかみられる。この「石塚山」には、桶狭間の戦いの戦死者を弔った塚(石塚)があったともいわれ、一説には「メサ」(周囲の地表が侵食によって削られて形成された平らかな台地)ではなかったかともされるが、いずれにしても何らかの特徴的な構造物がそこに存在していたことは考えられる。桶狭間古戦場伝説地から南へ500メートルほどの付近に現在ではホシザキ電機株式会社本社が立地する小高い丘陵地があり、『豊明村誌』が眺望良好としている小山状の地形、これを石塚山とし、ここから南方へ緩やかに下る中腹付近がそれらの遺構の推定地とされている。なお、石塚山一帯は区画整理されて現在は住宅地であり、石塚の名も「石塚公園」と呼ばれる街区公園(位置)や同名の交差点(位置)が残る程度である。 しかし、『寛文村々覚書』や「当村石塚山之内」や『尾州古城志』の「石塚山塁跡」という墓所の所在地が、「石塚山」とされる小丘陵上を指しているのか、「屋形はさま」を指しているのか、はっきりと確認することができない。『関東下向道記』(1628年(寛永5年))にある「道より馬手(右手)にあたりて小高き古塚有そのかミ織田の信長公、駿河義基と夜軍有しに義基たたかひまけて此所にて果給ひし古墳なりと聞て」という記述は、具体的な地名は挙げられていないものの、『道中回文図絵』(1664年(寛文4年))や『絵入東海道中記』(1669年(寛文9年))にある「今川義元さいご所」と同様、「屋形はさま」を指していると考えられている。すなわち江戸時代初期には「屋形はさま」にも「塚」が存在していたことを示しており、その大きさを『知多郡桶廻間合戦申伝之覚』(1725年(享保10年))は2間半四方(約20.7平方メートル)であると記録している。 江戸時代に整備された東海道は、参勤交代の諸大名から伊勢参拝の庶民に至るまで多くの人々が往来してにぎわいを見せると共に、旅の参考となる宿駅・里程・名所旧跡を記した印刷物も大量に発行され、流通するようになる。特に「屋形はさま」は東海道のすぐかたわらにあり、往来する多くの人々の目にもとまりやすく、手軽に訪れることのできる名所として、道中記などでも頻繁に紹介されている。また、尾張藩士の間で桶狭間の戦いとは、神君(徳川家康)が関わった戦役として小牧・長久手の戦い(1584年(天正12年))と共に関心の高かったイベントであり、多くの合戦録が執筆されたほか、現地を訪れて調査を行うなどの人物も現れるようになる。1771年(明和8年)12月、尾張藩勘定奉行の人見桼(ひとみ あつし)は友人であった同藩小納戸職の赤林信之、明倫堂教授の古川宗三と共に桶狭間古戦場を訪れ、そのときの様子を『遊桶狭記』(『人見桼文艸』)で描いている。このとき古戦場には今川義元の塚、少し離れて松井宗信の塚、他に隊将の塚が5つあり、暗く寂しい様子であったという。名古屋に戻った人見と赤林は程なくして、それぞれの塚の上に「桶峡七石表」と呼ばれる7基の石柱を建立する。 その後、何度か荒廃の憂き目に遭いながらそのつど整備の手が入り、江戸時代後期から大正時代にかけて後述するような記念碑や墓石がいくつも建立されている。1937年(昭和12年)、当時の愛知郡豊明村村議会は文部省に対して当地を国の史跡として認可するよう申請を行う。これを受けた文部省史蹟名勝天然記念物保存協会の担当者が現地で詳細な調査を行ったが、申請を受けたが当地を史跡として指定するにあたり「伝説地」としたのは、合戦地に比定される場所として諸説が次第に論じられるようになり、従来どおり「屋形はさま」がその地であると必ずしも断定しがたくなっていたためである。他方で、文部省の担当者は大字桶狭間の広坪(ヒロツボ)付近の調査も行い、広坪すなわち「田楽坪」もまた「伝説地」として指定することもやぶさかでないという見解を示したが、大字桶狭間の案内者であった梶野禄文は「伝説地」としての扱いに難色を示し、これを拒否したという。 1966年(昭和41年)には、史跡指定地のうち香華山高徳院境内を除く部分が公園として整備されている。
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