桶峡七石表とは? わかりやすく解説

桶峡七石表

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 00:16 UTC 版)

桶狭間の戦いの戦場に関する議論」の記事における「桶峡七石表」の解説

桶峡七石表(おけはざましちせきひょう)は、「桶狭間古戦場伝説地」内に点在する7基の石標総称である。江戸時代後期桶狭間の戦い故地訪れその荒廃ぶりを嘆いた人見桼が、友人赤林信之と共に鳴海下郷家の出資を受け1771年明和8年12月建立したのである。この地にはもとより三河七騎の墓」と称する7つ墳墓があったといい、2つ失われていることから「五墳」とも呼ばれ山田塚・御小姓塚・御草履取塚などという別称持ってたとする。あるいは、七墳とされたのは義元松井宗信墳墓含めてのことだったともいう。1号碑は今川義元2号碑は松井宗信の名が刻まれるが、3号以降には特定の人物の名は刻まれていない。また埋設部分など、判読しきれていない文字もあると考えられている。今川義元戦死の地を示した最も古い指標といわれ、これらの石標松井宗信墓碑によって取り囲まれ範囲桶狭間古戦場伝説地として史跡の指定受けている。 七石表の一覧番号画像寸法文字備考1号18×18×130 北面:「今川上総介義元戦死所」東面:「桶峡七石表之一」南面:「明和八年辛卯十二月十八日造」「人見弥右衛門桼」「赤林七郎信之」 「上総介」は織田信長名乗った称号で、今川義元がそれを称したことは無いとされる2号15×17×103 東面:「松井八郎冢或云五郎八南面:「桶峡七石表之一」南面:「明和八年辛卯十二月十八日造」 香華山高徳院境内にある。 3号15×15×95 西面:「士隊将冢」東面下方:「人見弥右衛門桼」「赤林七郎信之」南面:「本田尚澄書」北面:「桶峡七石表之一」 調査によりすべての文字確認済み4号15×15×84 西面:「士隊将冢」東面下方:「人見弥右衛門桼」「赤林七郎信之」北面:「桶峡七石表之一」 5号15×15×90 西面:「士隊将冢」東面下方:「人見弥右衛門桼」「赤林七郎信之」北面:「桶峡七石表之一」 6号15×15×90 南面:「士隊将冢」西面:「桶峡七石表之一」 7号15×15×105 南面:「士隊将冢」東面下方:「人見弥右衛門桼」「赤林七郎信之」北面:「桶峡七石表之一」

※この「桶峡七石表」の解説は、「桶狭間の戦いの戦場に関する議論」の解説の一部です。
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