今川義元の戦死地について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/11 00:16 UTC 版)
「桶狭間の戦いの戦場に関する議論」の記事における「今川義元の戦死地について」の解説
今川方本陣地には広範囲にわたるさまざまな説がみられるのに対し、今川義元の戦死地はある程度絞り込まれているといえる。義元討ち取りの後に深田に足をとられてはいずり回った今川方の残兵がことごとく討ち取られたという『信長公記』の記述は、義元戦死地が深田ないしは湿地帯の近くであったことを示唆しており、深田ないしは湿地帯の「はさま」と目される地形は自ずから限定されるからである。いずれにしても、本陣地と異なることは前提としてあり。『信長公記』に「三百騎計り真丸になつて義元を囲み退きける」とあるように、義元らは騎馬で撤退を始めていることから、戦死地を本陣地からある程度離れた場所として捉えることは自然である。 『関東下向道記』(1628年(寛永5年))に、東海道を鳴海から池鯉鮒(ちりふ、知立)に向かう途中、右手に今川義元の墳墓といわれる塚を見たとあり、これは現在の桶狭間古戦場伝説地付近が今川義元戦死地として登場する初出とされ、東海道に面した北を除く三方を丘陵で囲われた狭隘な地(「屋形はさま」)が、江戸時代初頭にすでに今川義元終焉の地として信じられていたことを示している。『信長公記』は織田方が「東に向つてかゝり給ふ」といっており、そのことで『感興漫筆』は山の上に幕を張って酒宴を催していた義元が麓まで追い落とされたという伝承を紹介している。西から襲撃された義元らが東に向かってのけぞり、東に向かって転がり落ちたとするのは素直な解釈であるといえる。そして山鹿素行の紀行文『東海道日記』には「オケハザマ、デンガクツボ、こゝに今川義元の討死の所とて塚あり、左の山の間のサワにあり」とあり、桶狭間古戦場伝説地付近が大正時代まで湿地帯(サワ)であったことは、今川方の残兵がぬかるみに足を取られてはいずり回ったという『信長公記』の記述を裏付けるものでもある。おそらくはその日の朝まで滞在していた沓掛城を目指していた途中、義元は桶狭間古戦場伝説地付近で討ち取られたのではないかとするのが従来より見られる主張となっている。 これに対し、義元が「田楽坪」で討ち取られたとする説も存在する。「田楽坪」は、町丁名でも字名でもないが、名古屋市緑区桶狭間北3丁目付近に「田楽坪」という名称で長らく『2万5千分1地形図』に記載され続け、現在でも『電子国土基本図(地図情報)』(国土交通省国土地理院)に掲載されている地名である。大字桶狭間では、字名としてあった広坪(ヒロツボ)の古称として「いけうら」の他に「田楽坪」が認識されており、昭和時代に入り古戦場であったことを示す江戸時代の碑石が発見され、昭和50年代以降に藤本正行や小和田哲男らによって発表された新説にも補完されて、この「田楽坪」も義元戦死地の候補地として声高に主張されるようになる。 その小和田哲男は、義元が大高城へ撤退するために西に向かう途中、すなわち名古屋市緑区内で討ち取られたという『続明良洪範』の記述を支持している。そして梶野渡は、『信長公記』のうち、今川方の兵卒の多くが「深田のぬかるみ」に足を取られたところを討ち取られたという記述をみ、1608年(慶長13年)の慶長検地において石高が決定した田、すなわちその開墾時期の多くが江戸時代以前であったことが推察される「本田」の存在が、豊明市の桶狭間古戦場伝説地付近ではみられないことを指摘、義元はやはり西方に退却し、「本田」のあった「田楽坪」付近で討ち取られたのではないかとしている。
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