『信長公記』の記述
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:08 UTC 版)
「稲葉山城の戦い」の記事における「『信長公記』の記述」の解説
『信長公記』では以下のように記述されている。 8月1日(年次は書かれていない)、斎藤家の有力な家臣でいわゆる西美濃三人衆と呼ばれる稲葉良通(一鉄)、安藤守就(道足)、氏家直元(卜全)が織田家に内応を約束し、人質を受け取ってくれと連絡してきた。信長は村井貞勝・島田秀満を受け取りに向かわせつつ、すぐに兵を集めて美濃へ攻め入り、井口山とは山続きの瑞竜寺山へ駆け上った。龍興側が「これは敵か味方か」と戸惑っているうちに、信長は城下の井口まで攻め入ってこの町を焼き討ちし、稲葉山城を裸城にしてしまった。この日はことのほか強風だったという。 8月14日、信長は城普請の分担を決めつつ、城の周囲に鹿垣を作って閉じ込めた。そこへ美濃三人衆が挨拶に来て驚愕した。 8月15日、美濃の者たちが降参。龍興は舟で長良川を下り、伊勢の長島へと脱出した。信長が挙兵してからわずか半月の出来事であった。 この後、信長は地名を井口から岐阜に改めた。
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