生誕から信秀存命中までとは? わかりやすく解説

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生誕から信秀存命中まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 00:12 UTC 版)

織田信広」の記事における「生誕から信秀存命中まで」の解説

信秀長男であるが、生母側室という立場から家督相続権なかったらしく、母親出自不明である。一般にも「信長の兄」とは認識されておらず、織田弾正忠家一族扱いであった生年不詳だが、信長10代前半の頃には既に重要な軍事的役割任されており、ある程度は年が離れていたと推測される。また『信長公記』の記述から、織田信時同母弟でないかと見られている。 天文17年1548年3月起こった第二次小豆坂の戦いでは先鋒務める。しかし小豆坂を登る時に今川先鋒松平勢と鉢合わせしてしまい、応戦する劣勢に立たされたために信秀本隊が陣を張る盗木の付近までひとまず退き本隊合流して松平勢を退ける。その勢い乗り信秀らは攻勢に出るも、今度今川伏兵岡部長教らが本隊突いたことにより総崩れとなり大敗喫する。この敗北により、織田軍は安祥城へと敗走余儀なくされ、信秀安祥城守備を信広に任せて尾張へと帰還した天文18年1549年3月安祥城守備任されていた信広は、今川義元配下太原雪斎率い今川松平連合軍2万侵攻を受け追い詰められるが、深入りし先鋒本多忠高討ち取り浮き足だった今川軍に対して城より打って出撃退成功する第三次安城合戦)。しかし同年11月再度雪斎に城を攻められた際には、平手政秀などが援軍遣わされるも耐え切れず安祥城陥落今度生け捕りにされてしまう(第四次安城合戦)。後に、織田家人質となっていた松平竹千代徳川家康)との人質交換という形で織田家送還される三河支配橋頭堡たる安祥城陥落加えてこの人交換交渉により、織田家三河における求心力大きく後退する結果となった

※この「生誕から信秀存命中まで」の解説は、「織田信広」の解説の一部です。
「生誕から信秀存命中まで」を含む「織田信広」の記事については、「織田信広」の概要を参照ください。

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