生誕からデビューまで(1944年〜1969年)
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「渡瀬恒彦」の記事における「生誕からデビューまで(1944年〜1969年)」の解説
幼少期はガキ大将だった。同じ小学校に通った同級生は「恒ちゃんは、ガキ大将で、けんかがものすごく強かった。友だちをいじめた相手に『何やってるんや』と向かっていき、兄貴肌で慕われていた」と懐かしんだ。生誕した島根県から兵庫県津名郡淡路町(現・淡路市)に移り、三田学園中学校・高等学校卒業(6年間の寮生活)。中学の入学試験で「あの野郎2番の成績で入って来た」と兄・渡哲也が回想していたが中学三年で柔道黒帯。高校時代は水泳部に所属。当時から同世代の女子に人気があり運動会には渡瀬目当ての女子学生が押しかけてきて大変だったという。同級生の兵庫県議・野間洋志によると「常に夏目漱石などを読んでいた。難しい「乾坤一擲」などの言い回しや熟語を使い、国語の成績は270人中常に5番以内」。また恩師によれば、当時から頭の回転が早くリーダーシップがあった。また俳優かけだしの頃、三田学園の寮を何度か訪れ淡路の海を「昔はヤスで魚やサザエを取った」と懐かしんでいたという。渡瀬曰く高校在学中は新聞記者に憧れていた。 三田学園高等学校卒業後、中央大学・慶應義塾大学法学部に現役合格するも早稲田大学は不合格だった。兄・渡哲也からは「慶應に行け」と言われたが、庭で不合格通知を見た母親が涙を流してるのを見て1浪を選択し尾崎士郎「人生劇場」にも影響された、早稲田大学の第一法学部に入学。当時青山学院大学に通っていた兄・渡哲也との共同生活が始まる。空手部に所属し、二段の腕前だった。またボクシングもやっていた という説もある。 しかし、本人曰く「いい加減な学生」 で、当時の大学は学生運動全盛期で講義もなければ卒論もない。新聞記者になりたい夢はいつしか消え、作詞家になりたいと詩をたくさん書いていた時期もあった が、大学在学中はやりたいことも見つからないまま、仲間たちと「いつも何かねぇのかな」と語り合っていたという。だからこそ実社会に出たらハードな職種で、なおかつ時代の先端を行く仕事に着きたいと考えた結果、卒業見込み で電通PRセンターに就職した。兄・渡哲也の「堅い道を進め」というハッパもあって電通PRセンターに就職した。しかし、研修期間1ヶ月で同社を辞め、先輩が作った青山の広告代理店「ジャパーク」に移る。仕事は営業、渡瀬自身も会社員時代当時もよく働いていたと自負している。ジャパークで働いていた時、兄・渡哲也の知り合いが不動産屋を始めて急成長。宣伝スタッフがいないというので休日になると手伝いに行っていた。そこでたまたま東映の社員が居合わせ、「俳優にならないか?」と声をかけられる。最初は躊躇するものの、ジャパークの社長に相談すると、「絶対マイナスにならないから」と当時東映企画製作本部長だった岡田茂に会うことを薦められる。ジャパークの給料もよく、仕事も面白くなって来たところで、映画にまるで興味もなく、兄から「芸能界は前近代的な職場だしラクじゃない。お前はふつうの堅い道を進んで欲しい」などと映画界入りに反対され、自身も兄を東映に引き抜くための手段に使われているんじゃないかと懸念し、100%断るつもりで岡田に会いに行ったら、「とにかく俺にまかせろ」などと岡田に口説かれ、岡田の人柄にすっかり魅了され、「こういう人がいる世界なら一緒に仕事をしたい。30まで人生預けてみよう。一発ためしにやってみるか」と即決で俳優転向を決めた。岡田から「男が顔になってくるのは35歳だぞ。それからだからな」と言われた。渡が芸名で活動しているのに対し、本名で活動し始めたのは、高倉健を意識した東映に「大倉純」という芸名を付けられそうになったが気に入らず、それなら本名の方が良いと申し出たことに由来している。
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