生誕から1950年代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 16:11 UTC 版)
「ビル・エヴァンス」の記事における「生誕から1950年代まで」の解説
エヴァンスはアメリカニュージャージー州のプレインフィールドに生まれ、母はルシン人の系統を持ち、父は相当な身分を持つウェールズ系の人物であった。彼の父は、兄のハリーと同様に、幼い頃からエヴァンスに音楽を学ばせている。ラフマニノフやストラヴィンスキーなど、クラシック音楽に親しんだ後、10代に入ると兄と共にジャズにも関心を持つようになり、余暇にはアマチュアバンドでピアノ演奏するようになった。 1946年にサウスイースタン・ルイジアナ大学(英語版)(Southeastern Louisiana University)に入学、音楽教育を専攻。並行してアマチュアミュージシャンとしての音楽活動もさらに活発になり、充実した学生時代を送った。学生時代には後年のレパートリーの一つとなる曲「Very Early」を既に作曲している。 だが1950年の大学卒業後、1951年から召集を受けてアメリカ陸軍での兵役を強いられた。軍務中は当時の朝鮮戦争の前線に向かうような事態もなく、大学での経歴によって陸軍バンドでの活動機会も与えられたものの、エヴァンス自身にとっては不快な期間であったと伝えられる。また兵役中に、その後の生涯にわたる悪癖となった麻薬常用が始まったという。 1954年の兵役終了後、ジャズのムーブメントの中心地であるニューヨークに出て音楽活動を開始。ミュージシャンの間で、伝統的なジャズ・前衛的なジャズのいずれにおいても優秀なピアニストとして知られるようになった。この時代には、サイドマンとしての活動が主であり、リディアン・クロマティック・コンセプトで知られる音楽理論家・作曲家のジョージ・ラッセルの録音に参加している。ラッセルからの影響は、作曲に現れていると言われる。 その活動ぶりを買われてリバーサイド・レーベルからのスカウトを受け、1956年に最初のリーダーアルバム『New Jazz Conceptions』を残している。だが、このデビューアルバムは500枚しか売れなかった。 1958年にはマイルス・デイヴィスのバンドに短期間加わり、録音とツアーを行っているが、バンドで唯一の白人であること、ドラッグの問題、そして彼自身がリーダーとしての活動を望んだためにバンドを離れる。しかしデイヴィスの要望で、ジャズ史に大きな影響を与えた1959年の『カインド・オブ・ブルー』のセッションに参加している。ハード・バップ的な頻繁なコードチェンジではなく、モードに根ざしたアドリブをこのアルバムで目指していたデイヴィスは、エヴァンスのアイディアを必要としていた。このアルバムに、エヴァンスは自作「Blue in Green」を提供している(ただし、クレジットはマイルス作曲となっている。『ポートレート・イン・ジャズ』での同曲のクレジットはエヴァンスとデイヴィスの共作とされている)。また「Flamenco Sketches」が『Everybody Digs Bill Evans』収録の「Peace Piece」と発展させたものと伺えるなど、『カインド・オブ・ブルー』にはエヴァンスの影響が色濃く反映されている。
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