生誕から体育教師へ(1874-1899)
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「可児徳」の記事における「生誕から体育教師へ(1874-1899)」の解説
1874年(明治7年)11月7日、岐阜県恵那郡上地村(現・中津川市苗木)で生まれる。父・可児真対(かに まつい)は、苗木藩士で右筆などを務めた人物で、徳は真対の次男であった。苗木藩の士族一覧には「徳三郎」の名で徳の名が記されている。可児の幼少期は不明点が多く、故郷にある中津川市苗木遠山史料館が調査を続けているが、後に飛騨高山(現・高山市)へ引っ越したようであり、1893年(明治26年)に岐阜県斐太尋常中学校(現・岐阜県立斐太高等学校)を卒業している。 斐太中卒業後は小学校教員を3年間務めた。そこで先輩教師に才能を認められ、体操教師となることを勧められた。そして体育指導者を志して1896年(明治29年)10月に上京し、同年11月20日に日本体育会体操練習所(現・日本体育大学)に撰科生として入学した。撰科は随時入学が可能で、小学校教員や車夫などすでに職業を持っているものが多く、個々人の興味関心に応じて自由に科目を選択することができるというコースであった。可児は術科2時間、学科1時間を毎日午後3時ないし午後4時から履修していたことから、可児も東京で何らかの仕事をしながら体操練習所に通っていた可能性がある。体操練習所では坪井玄道や依田直伊から普通体操の指導を受けた。1897年(明治30年)7月8日に文部省教員検定試験(文検)を受検して中等教育の教員免許を兵式体操と普通体操の2科目取得し、同練習所を7月15日に卒業、同年10月から群馬県尋常中学校(現・群馬県立前橋高等学校)の助教諭に着任する。翌1898年(明治31年)6月には生理科の免許も取得し、同年10月に沖縄県師範学校へ転任した。沖縄師範では半年勤めただけで、1899年(明治32年)4月、高等師範学校(後の東京高等師範学校、現・筑波大学)助教授に就任する。
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