生誕から1945年終戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 08:50 UTC 版)
「増田善信」の記事における「生誕から1945年終戦まで」の解説
1923年(大正12年)9月11日、京都府竹野郡弥栄町の農家に生まれた。両親と兄、妹がいたが、家は貧しく、学力に秀でていた増田を学校に通わせるために父は地主から新たに田を借り、兄妹は働いたという。増田は奨学金を得て官費で入学できる陸軍幼年学校や海軍兵学校を目指したが、視力や体力の点で入学することはできず、中国にある旅順工科大学の付属教員養成所に合格したものの、兄の日本軍への入隊が決まったことにより、母親の懇請を受けて入学を辞退し地元に残った。その後1941年(昭和16年)4月、中学校の教師の紹介を受けて宮津市の測候所に入所し、無線機で受信したモールス信号による気象電報を天気図に起こす作業や、日々屋上から気象観測する作業に従事した。地元の漁師や農家に雑談ついでに天気や洪水の予報を伝えることもあった。 しかし、1941年12月8日の開戦で状況は一変。無線で受信する気象情報は暗号化され、金庫に保管した乱数表で解読する必要がある機密事項となった。以後、終戦まで新聞やラジオで天気予報が報道されることはなく、予報を基準に生活設計する地元漁師らに伝えることも禁じられた。近日中に大荒れになる天気予報を把握していても、外海に出ようとする漁師に「今日はこんなに天気がいいんですが、明日はどうですかねえ」というように匂わせるのが限界であったという。 1944年(昭和19年)中央気象台付属気象技術官養成所(のちの気象大学校)本科を卒業し、同年9月、海軍に入隊した。翌1945年(昭和20年)3月に、 茨城県の海軍航海学校分校(のちの海軍気象学校)で教育を受け、卒業後は米子の美保航空隊に配属された後、当時まだ建設中だった出雲の大社基地に着任した。従軍中は海軍少尉として天気予報を担当し、無線から聞き起こした天気図をもとに上官に気象情報を報告するのが任務であった。敗戦間近の8月になると、数回にわたり、沖縄方面に飛び立つ海軍航空隊のパイロット達に、航路と那覇上空の天気予報をレクチャーする役割を命じられた。戦時下で期待された天気予報は、必ずしも正確な予報ばかりではなかった。「『神風』は吹かない」の一言が言えなかった後悔に長く苦しみ、これがその後の生涯にわたる活動の原動力となった。終戦から数日後、宮津の測候所に戻ることになり、帰郷した。戦時中に、父と兄は亡くなっていた。
※この「生誕から1945年終戦まで」の解説は、「増田善信」の解説の一部です。
「生誕から1945年終戦まで」を含む「増田善信」の記事については、「増田善信」の概要を参照ください。
- 生誕から1945年終戦までのページへのリンク