企画・製作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/29 01:45 UTC 版)
プロデューサーの有迫俊彦が、原作に描かれている亜美の二面性を評価しており、テレビアニメでは学園生活が描かれていないことから1995年5月下旬に映画化が決定した。有迫の要望でシナリオ執筆に際し、アレンジを加えずに原作をそのまま映像化させた。7月下旬にシナリオ決定稿が完成し、表紙にはテレビアニメ第55話(『R』第9話)で亜美がパソコンを眺めるカットが使用された。 有迫や五十嵐拓哉の要望によって、BGMは新しく録音されたものが使用された。 亜美の気持ちが途切れずに何かに繋がるラストにするために「私頑張る!」の台詞で締め括られたが、この台詞はシナリオには存在しない。また、エンディング突入時に亜美の中で何かが吹っ切れたことを描くために白い鳩が飛び立っている。白い鳩にしたのは、五十嵐が思春期の少女なら誰でも持っている記号と考えていたからである。
※この「企画・製作」の解説は、「亜美ちゃんの初恋」の解説の一部です。
「企画・製作」を含む「亜美ちゃんの初恋」の記事については、「亜美ちゃんの初恋」の概要を参照ください。
企画・製作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 05:25 UTC 版)
「TOKYO VICE」の記事における「企画・製作」の解説
原作はジェイク・エーデルスタインが2009年に発表した小説『トウキョウ・バイス: アメリカ人記者の警察回り体験記』 "TokyoVice:American Reporter on the Police Beatin Japan"。ミズーリ州コロンビア出身のエーデルスタインは、上智大学文学部を卒業後、1993年に読売新聞社に入社し日本で初めての外国人新聞記者となった。この小説は13年間に渡ってヤクザの裏社会を取材したときの回想録が基になっている。 2013年にダニエル・ラドクリフ主演、アンソニー・マンドラー監督、脚本をトニー賞やオビー賞の受賞歴があるJ・T・ロジャース(英語版)により映画化が企画された。エーデルスタインとJ・T・ロジャースは高校時代からの友人でエーデルスタイン本人から脚本執筆を依頼されたという。しかし撮影が始まる直前に頓挫してしまった。 しばらく放置されていたが、2019年にイギリスのエンデヴァーコンテントが権利を取得するとテレビシリーズとして復活した。6月には製作総指揮にアラン・プール、マイケル・マン、デスティン・ダニエル・クレットン、ジョン・レッシャー、主演も兼ねるアンセル・エルゴート、渡辺謙らが発表され、10月に第一話の監督がマイケル・マンが決まったと報道された。 引き続き脚本を担当したJ・T・ロジャースによると、このドラマはエーデルスタインの実体験をヒントにしているが、伝記でもドキュメンタリーでもなくフィクションだという。エーデルスタインは続編にあたる"TOKYO Private Eye” を完成させているが、2022年5月の段階でそのテレビシリーズ化については決まっていない。 2022年6月7日、HBO Maxはシーズン2の制作を正式に発表した。
※この「企画・製作」の解説は、「TOKYO VICE」の解説の一部です。
「企画・製作」を含む「TOKYO VICE」の記事については、「TOKYO VICE」の概要を参照ください。
企画・製作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 08:03 UTC 版)
「コタキ兄弟と四苦八苦」の記事における「企画・製作」の解説
ダブル主演を務める古舘と滝藤が2017年に偶然出会った時に「自分たちがダブル主演できるドラマを立ち上げよう」と意気投合したことから始まった企画で、3年あまりの月日を経て公になるプロジェクトとなる。主演が実現することになった古舘は「これはきっとドッキリに違いない。自分が主演なんてありえない」と謙遜しながらも、「もう必死にやるしかない。何としても面白いドラマにしたい」と意気込みを語った。もう1人の主演で弟役を務める滝藤も「古舘さんと2人で立ち上げた企画がこんな大きなプロジェクトになって嬉しい限り」と喜びを表現した上でこのドラマを大いに楽しみたいとコメントした。
※この「企画・製作」の解説は、「コタキ兄弟と四苦八苦」の解説の一部です。
「企画・製作」を含む「コタキ兄弟と四苦八苦」の記事については、「コタキ兄弟と四苦八苦」の概要を参照ください。
企画・製作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/08 23:24 UTC 版)
「新しい靴を買わなくちゃ」の記事における「企画・製作」の解説
かねてから親交のあった北川悦吏子、岩井俊二、中山美穂の3者間でパリを舞台にした映画の話があった。公開より5年ほど前からあった企画であったが、その間監督を務めた北川の疾病や、主演を務めた中山の他映画への出演などの理由により延期されていた。スケジュールの都合上、北川による監督作品『ハルフウェイ』が本作より先に制作、公開された。2009年には、物語の原型となるくらもちふさこによる漫画が雑誌『an・an』に掲載され、その3年後の2012年にオールパリロケにより撮影された。 北川と中山は、2001年に放送されたテレビドラマ『Love Story』以来、岩井とは1995年公開の映画『Love Letter』以来の顔合わせとなった。
※この「企画・製作」の解説は、「新しい靴を買わなくちゃ」の解説の一部です。
「企画・製作」を含む「新しい靴を買わなくちゃ」の記事については、「新しい靴を買わなくちゃ」の概要を参照ください。
企画・製作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 08:54 UTC 版)
本作の企画をプロデューサーとして先導した東京ムービー社長(当時)の藤岡豊は、かねてより日本国内でのアニメビジネスに限界を感じ、アメリカ市場への進出を考えていた。そこで彼は新たに制作会社を作り、そこをベースに日米合作のアニメーション映画を制作して世界配給することを目論む。1975年にテレコム・アニメーションフィルム(以下、テレコム)を設立し、1977年にはアメリカでは抜群の知名度を持ち、ウォルト・ディズニー存命中に二度の映画化企画が持ち上がったという伝説的漫画『リトル・ニモ』の映像化権取得に乗り出した。そして1978年夏、アメリカに渡った藤岡は、本作の映画化権を取得する。 藤岡には、「ディズニーに対抗できるフル・アニメーション映画を作る」というもう一つの夢があった。そしてそのために全くアニメの経験がない新人たちを新規に採用し、大塚康生が育成を受け持った。しかし制作費調達やアニメーターの経験不足によりスタッフ編成が難航し、なかなか実作業に入れなかったため、テレコムは他のスタジオから現場の叩き上げのスタッフをかき集め、『ルパン三世 (TV第2シリーズ)』や宮崎駿監督の映画『ルパン三世 カリオストロの城』、高畑勲監督の映画『じゃりん子チエ』を手掛けることになった。そして藤岡はアメリカで関係者向けにその二つの映画の上映会を度々開催し、自社の実力をアピールすることに利用した。 1981年春、藤岡は消費者金融のレイクから出資を取り付け、40億円もの資金を得ると、日本側のプロデューサーに自ら就任。 藤岡は当初、アメリカ市場に食い込むために当時絶頂期にあったジョージ・ルーカスに共同製作の話を持ち掛けた。しかし、ルーカスは原案のストーリーに難があるとして謝絶し、『ルーニー・テューンズ』で知られるチャック・ジョーンズからも断られた。そこで藤岡は、ルーカスに推薦されたスター・ウォーズシリーズ初期のプロデューサー、ゲイリー・カーツにアメリカ側のプロデューサーを依頼するとカーツはこれを快諾、さらに彼の推薦で脚本はSF界の超大物レイ・ブラッドベリに決まった。そして日米合作のため、東京ムービー新社とカーツのキネト・グラフィック社との合弁会社のアメリカ法人キネトTMSを設立し、制作へ向けて本格的に始動する。同時に藤岡とゲーリー・カーツの2人がエグゼクティブ・プロデューサーに就任し、映画の内容についてはゲイリー・カーツ、予算など制作上での管理については藤岡豊と、ふたりの役割が分けられた。 1982年夏、カーツは自分の意向を反映させるよう、ブラッドベリとエドワード・サマー(英語版)に全面的にストーリーを書き直させた。『Nemo』(誰でもない者)という名が裏返すと『Omen』(前兆)という名になることに気づいたブラッドベリの用意したスクリプトは、「分裂したもう一人の人格オーメンに導かれるように夢の世界の深部に潜り込んだニモは、オーメンを倒して現実世界への帰還を果たす」というものだった。一方、宮崎駿が準備していた原案は、「夢の世界」を現実に存在する別世界と考え、「捨てられたロボットたちの王国とそのプリンセス、そして飛行船の盗賊の話」という後の『天空の城ラピュタ』の原型だった。 その頃、藤岡はディズニー流の「フル・アニメーション」制作のため、ディズニー草創期からの伝説のアニメーター集団"ナイン・オールドメン"から、フランク・トーマスとオリー・ジョンストンを顧問に迎えていた。そして同じ1982年の夏、2人の招きで高畑勲、宮崎駿、大塚康生、近藤喜文、友永和秀、山本二三ら計12人の日本側スタッフが、アメリカ式のキャラクターアニメーションの講習を受けるための研修会の名目で渡米する。しかし、二人は宮崎の描いたスケッチを見て、「自分たちに教えることは何もない」と困惑する。日本側のスタッフも、彼らの創作姿勢に大きな刺激を受ける。トーマスとジョンストンの紹介したアンディ・ガスキル(英語版)、ロジャー・アラーズ(英語版)と後にディズニー作品を支える面々が参加することになり、彼らと合同して作業を行うためにメインスタッフは日本とアメリカを往復した。 日本側の監督候補には宮崎と後から参加予定の高畑が挙げられていたが、宮崎は「初めから夢の世界が舞台と公言した作品では観客が白けるだけだ」と早い段階から企画自体に否定的だった。ブラッドベリによるシナリオ第一稿を読んでそれがエンターテインメントとして成立するのかどうかを訝しんだ宮崎は、カーツに自身が考える娯楽映画の要素をまとめたレポートを提出する。それが却下されたのを知ると、今度は藤岡に『もののけ姫』となった「戦国時代を舞台にした獣に変えられた若者と姫の物語」、アメリカのマンガ『ROWLF』を参考にした「王女と彼女に従う狼の悪魔退治の物語」およびそのイメージから派生し、『風の谷のナウシカ』のイメージソースとなった「風使いのヤラ」や「土鬼の王女」などの案を提示した。しかし藤岡にプロットを変える権限はなく、それらが採用されることはなかった。そして宮崎は 1982年11月22日にテレコムを退社し、プロジェクトから降りた。 宮崎と入れ替わるように参加した高畑は、ジェームズ・バリの『ピーターパン』やモーリス・センダックの『かいじゅうたちのいるところ』などを拠りどころとしてストーリーを組み立てようとした。そしてブラッドベリのアイデアを取り入れ、「主人公がふたつの立場に分裂し、それぞれ物語の構成要素となる」という物語の構造を考えた。しかし1983年3月12日、今度は高畑がプロット案でカーツと衝突して降ろされる。 宮崎・高畑の離脱後、プロジェクトはさらに迷走を重ねる。近藤喜文、大塚康生と日本側の演出担当は目まぐるしく入れ替わり、独断専行を続けていたカーツは現場から外された。 日本側演出が決まらないまま2年の準備期間が過ぎ、肝心の作画作業に入る前に45億円の製作資金が底を突いてしまい、制作は1984年8月にいったん中断する。 中断期間中の1985年5月から1986年5月にかけて、クリス・コロンバスがプロットを持ち込み、その案をもとに決定稿は作られた。 3年後の1987年にレイクが10億円の追加出資に応じると、藤岡は真っ先にカーツとの契約を解除してスタッフの変更を行った上で、新たに設立したロサンゼルスTMSで制作を再開。自ら全面的な指揮を執るようになった。最終的に日本側の監督はサンリオのアニメ映画でフルアニメーションの経験がある波多正美が、アメリカ側には、フランク・トーマスとオーリー・ジョンストンの推薦でウィリアム・T・ハーツが起用され、映画は1988年にようやく完成した。
※この「企画・製作」の解説は、「NEMO/ニモ」の解説の一部です。
「企画・製作」を含む「NEMO/ニモ」の記事については、「NEMO/ニモ」の概要を参照ください。
企画・製作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 00:53 UTC 版)
当初はまったく別の作品を計画していたものの、2011年3月11日に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生したことを受け、NHK内部で東北復興を支援する内容にすべきだとの意見が上がり方針を転換。福島県会津出身で、同志社を創設した新島襄の妻となった新島八重の生涯を描いた作品となることが公式発表以前にマスメディアを通して明らかにされていた。 同年6月22日に制作発表が行われた。この発表では同時に主演俳優も発表され、大河ドラマ初出演となる綾瀬はるかが起用されることになった。 クランクインは2012年9月9日。舞台となる福島県会津地方でのロケーション撮影から開始され、9月13日には鶴ヶ城において出演者による記者会見が行われた。 大河ドラマにおいて幕末期を描いた作品は、1990年代以降も幾つか制作されていたが、昭和期まで存命であった実在人物が主人公となるのは1985年の『春の波涛』以来28年ぶりとなる。 ドラマ本編は明治30年代の描写で完結しているが、最終話の紀行のコーナーでは晩年の八重本人の映像が使用された。大河ドラマの主人公となった実在人物の生前の映像が使用されたのは、本作が初めてである。 作中で会津弁を忠実に再現した結果、会津地方の人々からも「老人が使っている会津弁で聞き取りにくい」との指摘があり、2013年3月10日放送分から、総合テレビジョンのデータ放送に、会津弁や歴史用語の意味を解説する機能が追加された。 全50回の平均視聴率は14.6%(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)で、当時『平清盛』『花の乱』『竜馬がゆく』に続く歴代ワースト4位の数字だった。
※この「企画・製作」の解説は、「八重の桜」の解説の一部です。
「企画・製作」を含む「八重の桜」の記事については、「八重の桜」の概要を参照ください。
企画・製作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 19:27 UTC 版)
「ドラゴンボールZ 神と神」の記事における「企画・製作」の解説
原作者の鳥山明が初めてアニメシリーズに脚本の段階から深く関わった劇場公開作品。鳥山がコミックの原作と違わぬほど書き込んだ台詞入りプロットの中から90%以上のストーリーと台詞が採用されている。 破壊神ビルスら映画オリジナルキャラクターのほか、メインキャラクターたちの服装も鳥山が新たにデザイン。本作のキーワードである「破壊神」と「超(スーパー)サイヤ人ゴッド」は脚本家の渡辺雄介からの発案で、それを聞いた鳥山も「これ以上ない。という所まで強くなってしまった悟空たちのピンチを表現するにはとても良いアイデア」とそのまま残しつつも、暗いシリアスな物語と世界観だったため「東日本大震災以降、悲惨な話じゃなくて、友情や仲間、コメディを盛り込んだ明るいポジティブな内容にしたい」と修正を要請。当初は見本を示すだけのつもりが手が止まらず、初期プロットのクリリンと18号の結婚式をブルマの誕生パーティーに変更したりと、結果的にキャラクター設定や台詞、脚本に大幅に鳥山の手が入り、「もしも連載に続きがあったら…」を想定したオリジナルストーリーがつくられた。このことについて鳥山は公開後「脚本家の方には、大変失礼なことをしてしまった」と反省の弁を述べているが、脚本家の渡辺は「これが『ドラゴンボール』だなと。俺は何やってたんだろうと(笑)」と快く改訂を受けた。本作のサブタイトルは鳥山が決めたものであり、由来は単純に神同士が対決するから。魔人ブウ編の後の物語にしたことについては「悟空たちが一番強い時期であることと、原作最終話の後だと悟空はウーブを連れて、どこかに行ってしまい、ブルマやクリリンをかなり老けさせてしまったため」と答えている。 監督の細田雅弘は「震災後、子どもたちにドラゴンボールで元気な笑顔を取り戻してほしいというのがあってスタートした形だった」と語っており、劇場版アニメ制作へ本格的に初めて参加したことについて鳥山は、ハリウッドでの実写版が、ドラゴンボールとはとても言い難い出来だったことから、今回「原作者としての意地を見せたかった部分もある」と語っている。それに加え、「破壊神」や「超サイヤ人ゴッド」という世界観に関わることや、ベジータの(キャラクターの)崩壊ぶり、そして悟空が勝利できなかったことなどは、原作者でなければ触れにくいエピソードであったことも理由に挙げており、特にラストで悟空が勝てないというのは、「これまでのセオリーからいっても、ちょっと危険な賭けでしたが、そうすることで最強という噂の破壊神ビルスの威厳も保ち、悟空にとっても、まだまだ目標とすべき未来があることで『ドラゴンボール』は終わらない、というメッセージを含めています」「破壊神ビルスというキャラクターに敬意を表したものです。勝てないことで悟空やサイヤ人たちの更なる未来を予感させるような展開にしたかったのです」と語っている。シナリオは膨大な量になり、ピンチになった悟空をみんなで助けにいくなど、脇役キャラクターたちの様々な活躍がもっと盛り込まれていたが、子供を飽きさせない上映時間に配慮してカットすることになった。アクションシーンはCGで表現されているが、あえてキャラクターは作画で描き直している。また鳥山明の「震災のことを踏まえて街中のパニックや破壊のシーンはやめてほしい」という意向に沿って、CGを使用しての見せ場が用意された。 2015年4月18日に、本作の物語の続編となる『ドラゴンボールZ 復活の「F」』が公開された。 テレビアニメシリーズ『ドラゴンボール超』では、本作を原作とした「破壊神ビルス編」として、テレビシリーズ複数話分にリメイク・再構成している。
※この「企画・製作」の解説は、「ドラゴンボールZ 神と神」の解説の一部です。
「企画・製作」を含む「ドラゴンボールZ 神と神」の記事については、「ドラゴンボールZ 神と神」の概要を参照ください。
- 企画製作のページへのリンク