創作姿勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/10 23:13 UTC 版)
「ディナム・ヴィクトール・フューメ」の記事における「創作姿勢」の解説
たとえフュメの音楽作品が、独特な形式や内在する特質によってひとりでに眼に入るとしても、彼の神秘主義を見逃している限り、その作品を理解することは難しい。その難しさは、おそらくは、聴衆や一般大衆に受けようとする安易な効果を斥けた、洗練された趣味にある。この並外れた才能を持つ音楽家は、ありふれた手練手管と看做したものを、作品中に使おうとはしなかった。だからフュメの作品は、一般大衆にとっては理解しがたいものとなる。かてて加えて、交霊術にとり憑かれてからは、亡くなるまでの間、音楽活動以外ではそれが興味の中心となった。そのため、音楽家同士は頻繁に社会的な交流を必要とすることもあり、やがて活発な音楽家の仲間内からすっかり取り残されてしまった。 ディナン=ヴィクトル・フュメの作品は、ありとあらゆる矛盾や両義性を含んでいるが、それらはフュメの孤高で独立不羈の人柄を特徴付けるものでもあり、フュメの誠実さ、フュメの流行に対する軽蔑が、作品をいつまでも独創的なものとしている。楽曲形式は、古典的な規範からわざと外されている。実際フュメはたいてい独自の形式を考え出した。形式や、継続的な転調をやすやすと使いこなす能力は、比類ないフランス楽派に負ってはいるが、和声やリズム、力強く精巧な旋律は、独特な感覚を発揮していて、それらがフュメと、第一次世界大戦の前後の楽壇の主立った流行との違いをくっきり際立たせている。 友人宛ての私信の中で、フュメは次のように説いている。曰く、「芸術の目的とは、自然界を人間化することです。言うなれば自然界を、人間が廃した王位の座に釣り合わせることなのです。」「人間が、自分が見つめている森羅万象ほどにはもはや巨大な存在ではなくなってからというもの、芸術は、愛情の要求になったのです。人間が森羅万象を自分自身に呼び起こします。すると、作品が生まれ出るのです。ですから、それを理解するには永遠の時間が必要ですし、生きた真理を苦しみながら産み落とすには、人はおのが流謫を感じ取らねばなりません。」 驚くべきことに、フュメが亡くなる頃には、その作品が顧みられなくなっている。これについて、霊的で洗練された作曲家自身は、いささかの諧謔を交えながら、自分としては不本意ながらも、天が過剰に創作することを許してくれたのだ、と述べた。
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