作曲様式
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「ヤーセプス・ヴィートリス」の記事における「作曲様式」の解説
ヴィートリスはロシアの同世代の作曲家たちに手引きを受けつつ、ラトビアにおけるロマン派的民族主義の主唱者となった。彼はラトビアで最初に国際的評価を確立した作曲家であり、疑いなくラトビアにおけるクラシック音楽の父と目されている。ヴィートリスの友人や同時代の作曲家グラズノフが評価したように、彼の作品(特にそのオーケストレーションの華麗さ)には師リムスキー=コルサコフの影響が否定できない。ロシアで暮らしていた頃、ヴィートリスはラトビアの民間伝承に大きな興味を抱き、ペテルブルクでラトビア人合唱団の指揮をしたことがある。こうした経験に基づき、彼はしばしばラトヴィア民謡の旋律をそのまま用いて作曲した。彼はラトビア独自の音楽様式を創造せんとしてロシア五人組の方法を踏襲した。ヴィートリスの大規模作品(その大半はソナタ形式をとる)は、印象に残る劇的な展開によってしばしば特徴付けられる。概して彼は、20世紀の作曲家としてはむしろ保守的な傾向を有していたが、にもかかわらず名人的な作曲技術を備えていた。
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作曲様式
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「ハンス・レーオ・ハスラー」の記事における「作曲様式」の解説
ハスラーは、ヴェネツィア様式の新機軸を、アルプスを越えてドイツにもたらした最初の作曲家のひとりである。ドイツにはラッススのような立場の音楽家が何年間も活動していたにもかかわらず、そう言った音楽家は旧世代の「第1作法 prima prattica 」を代表しており、完全に展開され、洗練された、ルネサンスのポリフォニー様式の担い手だった。だがイタリアでは、新しい流行が浮上して、後にバロックと呼ばれる時代が決定されようとしていたのである。ハスラーや後のシュッツのような音楽家は、コンチェルタート様式や複合唱の理念、ヴェネツィア楽派の自由な情緒表現をドイツ文化に伝え、イタリアの外で最初の最も重要なバロック音楽の発展を、ドイツの地で切り開いたのである。 ハスラーの宗教音楽は、ローマ・カトリック教会とルター派教会の両方のために作曲されている。様式的に言うと、初期作品のほうが後の作品よりも進歩的である。イタリアから帰国後の作品には、複合唱の技法、テクスチュアの対比、随所に見られる半音階技法が顕著であるが、後年の宗教曲は保守的であり、パレストリーナ様式にならって線的対位法が駆使されている。 ハスラーの世俗音楽はマドリガーレやカンツォネッタ、ドイツ・リートが声楽曲にあり、器楽曲には、リチェルカーレやカンツォン・アラ・フランチェーゼ、トッカータなどがある。その多くは、イタリアのガブリエーリ進歩的な技法が採用されている。だが、性格においてはむしろ穏当で、常に職人芸や響きの美しさへの配慮が行き渡っている。
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作曲様式
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「マクシミリアン・シテインベルク」の記事における「作曲様式」の解説
シテインベルクは、初めはロシア音楽の大きな希望と見なされ、時には学友ストラヴィンスキー以上の才能と見られていた。だがシテインベルクは、ストラヴィンスキーとは対照的に、音楽界のさまざまな革新を厳しく拒否し続けたのである。シテインベルクの作品は作風において、恩師リムスキー=コルサコフやグラズノフの敷いた路線に明らかに沿っており、ロシア五人組によるロマン主義的な国民楽派の影響も加味されている。作曲技法はいたって巧みにコントロールされており、管弦楽法は華麗である。作品の多くは文学的な題材が使われている。1932年に「社会主義リアリズム」が宣告されるが、シテインベルクは、作風が国是に見合っていたために、大きな転向を迫られることはなかった。だがその頃の作品は、前にもまして民謡や民族音楽、異国趣味、愛国的な題材に対する依存が顕著となっている。 シテインベルクは未だに有名な作曲家とは言えない。作風に独自性が薄いというのは事実であり、折衷主義者の観は免れまい。音楽史においては、むしろ教育者としての側面が重要である。
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作曲様式
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「セルゲイ・ワシレンコ」の記事における「作曲様式」の解説
ワシレンコの作品は、2つの時期に分けることが出来る。第1期でワシレンコは、同時代の潮流に強く影響され、象徴主義や印象主義の影響に浴していた。しかし、1920年代を下るにつれて、ワシレンコはその方向から背を向けて、それからというもの、様々な国々の民族音楽にとりわけ関心を寄せた。ロシアやウクライナの民謡に加えて、ウズベクやトルクメン、極東の民謡にさえのめり込み、そのためにワシレンコのその時期の作品には、ある種の異国趣味が入り込んでいるのが認められる。ワシレンコの楽曲は、19世紀ロシアの芸術音楽の伝統に深く根差しているが、それでもことに和声法に関する限り、はっきりと国民楽派の伝統とは異なっている。それでも(ワシレンコの和声法は)「拡張された調性」の枠内でうつろい、調性破壊に踏み越えることはない。 ワシレンコは指揮者として活動したために、作品は管弦楽曲が多い。管弦楽作品はいずれも、音色のこの上ない豊かさや、管弦楽法の巧みさが特徴的である。ワシレンコは民族楽器にも興味を持っていた。つまるところワシレンコは、当時のロシア音楽の発展における典型的な代表者なのであった。ワシレンコの創作は、世紀末の帝政ロシアの流行から、ソ連政府によって公式化された社会主義リアリズムの美学に向かって広がりを見せている。
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作曲様式
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「アレクサンドル・クレイン」の記事における「作曲様式」の解説
アレクサンドル・クレインは、ユダヤ音楽の聖俗の両要素を、比較的モダンな音楽語法と統合させたため、フランス印象主義音楽や、友人アレクサンドル・スクリャービンの影響が認められる。クレイン自身のユダヤの血筋は、しばしば霊感の源になった。一連の器楽曲の題名がその好例である(クラリネット五重奏曲《ユダヤのスケッチ》作品12や《ヘブライ綺想曲》作品24など)。また、1921年には、テノール独唱と合唱、管弦楽のための《カディッシュ》を作曲している。1920年代の半ばより、モスクワ・ユダヤ劇場のために劇付随音楽も手懸けた。さらに、楽曲構成が厳格で古典的な楽曲や、もしくは著しく「ソ連的な性格」の楽曲も数々存在する。「ソ連的な」カテゴリーの楽曲に、歌劇《ザグムク》(1930年)や、《レーニン追悼の哀歌》(1925年)が含まれるが、さらに皮肉めいた題名の楽曲《ソビエト社会主義共和国連邦、世界の労働者の衝撃的旅団》(1925年)も存在する。
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作曲様式
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「アナトーリー・アレクサンドロフ」の記事における「作曲様式」の解説
アレクサンドロフは様式的に見て、アレクサンドル・スクリャービンとニコライ・メトネルの中間に立っている。音楽観においては恩師セルゲイ・タネーエフの影響も大きい。作曲技法の新機軸と無縁だったわけではないが、ロシア音楽の伝統を尊重しており、前衛音楽には決して与しなかった。ピアノ曲や連作歌曲は、アレクサンドロフの創作活動の重心となっている。 初期(すなわち1920年代末まで)の作品は、すべての作品の中で群を抜いて評価されてきた。この時期のアレクサンドロフは、とりわけ実験精神と遊び心を発揮して、ほとんど印象主義的な雰囲気の、異国風の音響効果を用いていた。しばしば神秘的で恍惚とした気分に染まって、調性の瀬戸際にまで入り込んでいる。しかしながら1932年に、社会主義リアリズムが公的に望ましいと宣告されると、アレクサンドロフも実質的に作風を変化させた。これはつまり、和声法や旋律法に関して、音楽語法を単純化させたということである。とりわけ民族音楽の特徴に頼って、いくつかの作品では民謡ふうの作風さえ採っている。このころ当のアレクサンドロフは、教育用のピアノ曲の作曲に追われており、スクリャービンの影響は目に見えて落ち込んでいった。今やアレクサンドロフの作品は、後期ロマン派音楽ふうになり、明晰に調的な音楽語法が使われるようになった。アレクサンドロフは、最晩年になって作曲活動を振り返り、懐古的な創作姿勢を好んだ。 アレクサンドロフの作品は注目に値するにもかかわらず、こんにち注目されているとは言いがたい。それでも1920年代までは、ロシアのピアノ曲の傑出した作曲家の一人として注目されていたのである。
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作曲様式
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「ルロイ・アンダーソン」の記事における「作曲様式」の解説
学者や教師として活動を続けるかたわら、ダンス・バンドのミュージシャンとして生計を立てた経歴からもわかるように、アンダーソンは同時代の大衆音楽に明らかに影響されており、特にリズム面においてタンゴやサンバ、ラグタイム、ジャズなどの影響が明らかである。叙情的で旋律中心の作品、たとえば『そりすべり』や『トランペット吹きの子守歌』のような作品では、スコットランド系民謡の特徴であるいわゆるヨナ抜き音階かそれに似た民族音階が使われている。 民族音楽や大衆音楽との接点が表向きは見られないような「舞踏会の美女」の場合でさえも、ワルトトイフェルなどのフランスの舞踏音楽やサティなどの「エール・ド・ヴァルス」(ワルツ形式の歌謡曲)の影響は明らかで、この作品における金管楽器の華々しい活躍はスーザ以降のアメリカの吹奏楽の伝統を思い起こさせる。 ルロイ・アンダーソンには戦後における冗談音楽のパイオニアという側面も見出され、タイプライターや紙やすりのような日用品を楽器として、それもしばしば「独奏楽器」として用いている。しかしながら同時代の冗談音楽がともすればクラシックの露悪的なパロディに終始しがちであったのに対して、アンダーソンの作品は精緻で丹念に仕上げられ、品格を保っている。まじめに書かれた音楽と、およそそれには不似合いな道具の組み合わせとがからくりとなり、自然なウィットやペーソスが引き出されている。 また、アンダーソンが庶民的・通俗的な音楽語法を用いているために、そのユーモア感覚が誰にでも伝わりやすいという強みもある。たとえば現代音楽の作曲家クシシュトフ・ペンデレツキも作品『Fluorescences』においてタイプライターを取り入れてはいるものの、アンダーソンほどの効果を上げてはいない。
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作曲様式
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「ヨハン・ペーター・エミリウス・ハートマン」の記事における「作曲様式」の解説
ハートマンの作品は、真摯な表現と劇的な生命力、とりわけ、デンマークの聴衆に奥底から訴えかける民族的な色彩が特徴的である。北欧的な要素は1830年代以降に強烈に浮上し、デンマーク民謡に基づく主題、どちらかというと暗い音色に向かいがちな傾向、そして転調に顕著である。ハートマンはこのようなロマン主義的な影響を、古典的な訓練によって培った形式感や主題操作に結びつけた。したがってハートマンの作風は、しばしばフェリックス・メンデルスゾーンのそれを連想させる。
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ガルはかなり早くから個人様式を発達させ、生涯にわたってそれに忠実であり続けた。ガルにとっておそらく最も重要な作曲家はブラームスであり、ガルの音楽様式はブラームス作品から形成された。ガルは作曲技巧を巧みにコントロールした。その上、旋律能力にもたいへん恵まれ、この意味で、シューベルト以来のウィーン楽派の伝統に立っている。そもそも隠し立てようのない伝統主義者であり、最後の作品まで調性を保ち続けた。モダニズムの風潮は、彼には馴染めぬままだった。ガルの音楽語法はリヒャルト・シュトラウスほど進歩的ではないが、その影響力は歌劇において歴然と認められる。19世紀末の音楽と比べると、半音階的和声法もさして顕著ではない。ガルはその代わりに、ますます過去の音楽に心を開き、J.S.バッハに影響された豊かなポリフォニーや、ウィーン古典派から派生した音楽語法の明晰さといったものを音楽表現に利用した。ガル作品には、しばしばユーモラスな要素が見出される。 音楽学者としてのガルは、たとえばウィーン古典派について活躍し、この主題に関する重要な貢献を行った。
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作曲様式
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「ユーリ・シャポーリン」の記事における「作曲様式」の解説
シャポーリンの音楽言語はむしろ保守的であり、常に調性の枠組みの中で動いている。作品において重要な役割を果たしているのは、ロシアやウクライナの民族音楽である。シャポーリンは、それらの要素をまさに体系的に作曲に活かす方法を心得ていた。したがってシャポーリンは、明白にロシアのロマン派的な国民楽派の伝統に位置付けられる。シャポーリンの模範はラフマニノフとメトネルであった。抒情的でよどみない旋律を創り出す能力は、とりわけ強烈に表れており、シャポーリンにとって声楽曲の作曲は天性のものであった。しばしばシャポーリンの作品は、人間的で詩的で、心底ロシア的であると呼ばれている。シャポーリンがソ連当局と衝突することは全くなかった。
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