セルゲイ・タネーエフとは? わかりやすく解説

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セルゲイ・タネーエフ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/27 14:20 UTC 版)

セルゲイ・イヴァノヴィチ・
タネーエフ
基本情報
出生名 Сергей Иванович Танеев
生誕 (1856-11-25) 1856年11月25日
出身地 ロシア帝国 ヴラディーミル
死没 (1915-06-19) 1915年6月19日(58歳没)
ロシア帝国 デューティコヴォロシア語版
学歴 モスクワ音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 作曲家ピアニスト
担当楽器 ピアノ

セルゲイ・イヴァノヴィチ・タネーエフ[1]ロシア語: Серге́й Ива́нович Тане́ев、ラテン文字転写例: Sergei Ivanovich Taneyev、1856年11月25日ユリウス暦 11月13日)) - 1915年6月19日ユリウス暦 6月6日))は、ロシア作曲家ピアニスト、音楽理論家、教育者。

生涯

出生から修学期

1856年、ロシア帝国ヴラディーミルで生まれた。15世紀まで歴史をたどれる貴族の家系に生まれ、父・イヴァンは医師で、アマチュア音楽家であった。5歳からピアノを習い始めた。

1866年の9歳の時、一家はモスクワに移住し、新設されたモスクワ音楽院に同1866年に聴講生として入学(1869年に正式な生徒となった)。低学年の頃はエドゥアルト・ランゲルロシア語版のクラスで学び、正式な生徒となってからはピアノエドゥアルト・ランゲルロシア語版ニコライ・ルビンシテインに、音楽形式とフーガをニコライ・グーベルトロシア語版に、作曲と楽器法をピョートル・チャイコフスキーの下で学んだ。特に、チャイコフスキーには可愛がられた学生であった。1875年に金メダルを得て卒業[2]

音楽院卒業後

卒業後はピアニスト、作曲家として活躍。レオポルト・アウアーとデュオを組んで演奏旅行を行う。1875年11月には、チャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調』のモスクワ初演でピアノを担当。1882年5月22日には同じく『ピアノ協奏曲第2番 ト長調』の世界初演を担当した。

1878年よりモスクワ音楽院で教鞭を執り、和声および楽器法を担当した。1881年に教授に昇格し、亡くなったニコライ・ルビンシテインの跡を継いでピアノ科教授も受け持った。そして1885年から1889年までの4年間、音楽院院長も務めた。なお、生涯を終えるまで乳母とともにマールィ。ブラシエフスク横丁の貸家に住んでいた。タネーエフはレフ・トルストイの寵愛を受け、トルストロイ家を頻繁に訪れる客であり、ヤースナヤ・ポリャーナで多くの時間を過ごした。1895年、トルストイ夫妻は7歳の息子を亡くし、トルストロイは悲しむ妻・ソフィア・トルスタヤ英語版を励ますために夏の休暇をタネーエフと共に過ごすこととし招待した。しかし夫人はこの頃からタネーエフに恋心を懐くようになり、トルストロイはタネーエフの同性愛を知っていたものの嫉妬を懐くようになり、夫婦間の不和の原因となってしまった。

1905年、権威主義的な運営方法に抗議して音楽院を退職。教授陣や学生には戻ってくることを要請されたが、戻ることはなかった。

モスクワ音楽院辞職後
デューティコヴォ村にあるタネーエフ博物館
モスクワノヴォデヴィチ墓地にある墓

1906年、一般の人々に普及をはかる人民音楽院の創設者となり、教員ともなった。音楽民俗学を学び、学生らと共に働いた。音楽院を退いた後の晩年はヨーロッパへ旅行することが多かった。

1915年、弟子であったスクリャービンの葬儀に出席した際、薄着で棺を担いだのが元で風邪を引き、心臓病を併発してモスクワ近郊のデューティコヴォ村[3]で生涯を閉じた。モスクワのノヴォデヴィチ墓地に埋葬されている。

作曲作品とその特徴

出版について無頓着だったために出版された作品数は少なく、番号付けは混乱しているが、4曲の交響曲弦楽四重奏曲などの室内楽曲、オペラ、合唱曲、ピアノ曲(数は少ないが、リーリャ・ジルベルシュテインがレパートリーとしている『前奏曲とフーガ 嬰ト短調』(作品29)が有名)など多数の作品を残した。わずかながら正教会の聖歌も作曲している(『主よ、爾は善智なる盗賊を』)。

その作風はチャイコフスキー同様保守的であるが、叙情性よりも構築性を重んじ、対位法を多く駆使しており、「ドイツ的」と称されることが多い。グラズノフ、門人パウル・ユオンメトネルと並んで、「ロシアのブラームス」と呼ばれる一人である。もっとも、タネーエフ自身はブラームスを嫌悪していた(同様にワーグナーも嫌悪していた)。

音楽理論に関して

対位法の理論家としても知られ、著書には『可動的厳格対位法』、『カノンの研究』、ブレッスラーの『厳格対位法と楽式論』の翻訳などがある。また、チャイコフスキーのいくつかの未完作品(『アンダンテとフィナーレ』など)を補筆している。

演奏家として

なお、ピアニストとしては、1891年にモーツァルトの『幻想曲 ハ短調』(K. 396)をエジソンシリンダーに録音しているほか、高く評価していたアントン・アレンスキーの『2台のピアノによる組曲第2番《シルエット》』の第4曲の録音(1892年)をパーヴェル・パプストと共に残している。

指導学生

弟子には下記がいる。

家族・親族

作品

交響曲

  • 交響曲第1番 ホ短調(1873-74年、1948年出版)
  • 交響曲第2番 変ロ長調(1877-78年、1977年出版) - 3楽章までの未完成。
  • 交響曲第3番 ニ短調(1884年、1947年出版)
  • 交響曲第4番 ハ短調 作品12(1896-98年、1901年出版)
    タネーエフが出版した唯一の番号付き交響曲であり、当初は『交響曲第1番』として出版された。

管弦楽曲

  • ロシアの主題による序曲 ハ長調(1882年、1948年出版)
    ニコライ・リムスキー=コルサコフの『100のロシア民謡集』(作品24)の第10曲を基にしており、パヴェル・ラムが補筆完成させ1948年に出版された。
  • 序曲『オレステイア』ホ短調 作品6(1889年、1897年出版)
    自身が作曲した同名のオペラの主題に基づく。

協奏曲

  • ピアノ協奏曲 変ホ長調(1875-76年、1957年出版)
    2楽章までのスケッチのみ。チャイコフスキーに酷評されたことから作曲を断念した。ヴィッサリオン・シェバリーンによる補筆版がある。
  • ヴァイオリンと管弦楽のための協奏的組曲 作品28(1909年)
    1. 前奏曲、2. ガヴォット、3. おとぎ話、4. 主題と変奏、5. タランテラ

弦楽四重奏曲

  • 弦楽四重奏曲 ニ短調(1874-76年、1952年出版)
  • 弦楽四重奏曲(第7番) 変ホ長調(1880年、1952年出版)
  • 弦楽四重奏曲(第8番) ハ長調(1883年、1952年出版)
  • 弦楽四重奏曲(第9番) イ長調(1883年、1952年出版)
  • 弦楽四重奏曲第1番 変ロ長調 作品4(1890年、1892年出版)
  • 弦楽四重奏曲第2番 ハ長調 作品5(1894-95年、1896年出版)
  • 弦楽四重奏曲第3番 ニ短調 作品7(1886年、1896年改訂、1898年出版)
  • 弦楽四重奏曲第4番 イ短調 作品11(1898-99年、1900年出版)
  • 弦楽四重奏曲第5番 イ長調 作品13(1902-03年)
  • 弦楽四重奏曲第6番 変ロ長調 作品19(1903-05年、1906年出版)
  • 弦楽四重奏曲 ハ短調(1911年、1952年出版) - 2楽章のみ。

室内楽曲

  • 弦楽三重奏曲 ニ長調(1879-80年、1956年出版)
  • 弦楽三重奏曲 ニ長調 作品21(1907年)
  • 弦楽三重奏曲 変ホ長調 作品31(1910-11年)
  • 弦楽三重奏曲 ロ短調(作曲年不明、1952年出版)
  • 弦楽五重奏曲第1番 ト長調 作品14(1900-01年、1903年改訂)
  • 弦楽五重奏曲第2番 ハ長調 作品16(1903-04年)
  • ピアノ四重奏曲 ホ長調 作品20(1902-06年)
  • ピアノ三重奏曲 ニ長調 作品22(1910-11年)
  • ピアノ五重奏曲 ト短調 作品30(1906-08年)
  • ヴァイオリンソナタ イ短調(1911年、1948年出版)
  • ヴァイオリンとピアノのための10のロマンス 作品17(1905年)

ピアノ曲

  • アンダンティーノ・センプリチェ ロ短調(作曲年不明、1953年出版)
  • 主題と変奏 ハ短調(1874年、1953年出版)
  • ピアノソナタ 変ホ長調(1874-75年) - 第1楽章のみ。
  • スケルツォ 変ホ短調(1874-75年、1953年出版)
  • 4つのスケルツォ(1875年、1953年出版)
    1. ヘ長調、2. ハ長調、3. ト短調、4. ニ短調
  • カドリーユ イ長調(1879年、1953年出版)
  • 行進曲 ニ短調(1879年、1953年出版)
  • 休息(エレジー)嬰へ短調(1880年、1953年出版)
  • 四手のための行進曲 ハ長調(1881年、1981年出版)
  • 子守歌 変ロ長調(1881年、1953年出版)
  • 前奏曲 ヘ長調(1894-95年、1904出版)
  • 前奏曲とフーガ 嬰ト短調 作品29(1910年)

合唱曲

オペラ

  • オレステイア(1887-94年、1900年出版)

参考文献

外部リンク

脚注

  1. ^ 姓は「タネイエフ」、「タニェエフ」などと日本語表記されることもある。
  2. ^ Baker 1919.
  3. ^ 1908年以来デューティコヴォ村では毎年夏を過ごしていた。

セルゲイ・タネーエフ

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オレステイア」の記事における「セルゲイ・タネーエフ」の解説

同名オペラ

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