ニコライ・チェレプニンとは? わかりやすく解説

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ニコライ・チェレプニン

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/10 21:26 UTC 版)

ニコライ・ニコラエヴィチ・チェレプニン
基本情報
生誕 (1873-05-03) 1873年5月3日
ロシア帝国ペテルブルク
出身地 ロシア帝国
死没 (1945-06-27) 1945年6月27日(72歳没)
フランス共和国パリ
学歴 サンクトペテルブルク音楽院
ジャンル クラシック音楽
職業 作曲家ピアニスト
担当楽器 ピアノ

ニコライ・ニコラエヴィチ・チェレプニンロシア語: Никола́й Никола́евич Черепи́н英語: Nikolai Nikolayevich Tcherepnin1873年5月3日 - 1945年6月27日)はロシア作曲家ピアニスト教授

経歴

サンクトペテルブルク出身。法律家を志したが断念し、サンクトペテルブルク音楽院にてニコライ・リムスキー=コルサコフに師事。その後、同音楽院の指揮科の教授に就任し、自らも帝室マリインスキー劇場の指揮台に立った。1909年から1914年にかけてセルゲイ・ディアギレフロシア・バレエ団に指揮者として参加し、最初のパリ公演でも指揮者を務めている。1918年ロシア革命を避けてグルジアに渡り、トビリシ音楽院の院長に就任。だが、赤軍のグルジア侵攻に伴い1921年イスタンブール経由でパリに亡命し、フランスで余生を送った。1945年にパリで死去し、郊外のサント=ジュヌヴィエーヴ=デ=ボワサント=ジュヌヴィエーヴ=デ=ボワ・ロシア人墓地フランス語版に息子のアレクサンドルと共に埋葬されている。

ニコライ・チェレプニンはフランス印象主義音楽の影響を受けた最初のロシア人作曲家と言われており、古典的で明晰な構成と、軽妙洒脱な響きを好む傾向が認められる。ロシア人作曲家には珍しく、息の長い旋律を持続させ、深刻な劇的表現を発展させるということは不得手であったらしい。

弟子

母校のサンクトペテルブルク音楽院では、ニコライ・ソコロフマクシミリアン・シテインベルクらと共に学究肌の教師として名高く、愛弟子の一人にセルゲイ・プロコフィエフがいる。プロコフィエフはしばしばチェレプニン邸を訪れ、アレクサンドル・チェレプニン少年に深い影響を及ぼした。

家族・親族

主要作品

外部リンク

脚注






固有名詞の分類

近現代の作曲家 ベルンハルト・クロル  ダーヴィド・ジュラ  ニコライ・チェレプニン  ノエル・ミュートン=ウッド  テオドール・ベルガー
ロシアの作曲家 ボリス・フィチンゴフ=シェーリ  アドリアン・シャポシニコフ  ニコライ・チェレプニン  セルゲイ・タネーエフ  ボリス・チャイコフスキー
ロシアの正教徒 フェオファン・グレク  アンドレイ・ルブリョフ  ニコライ・チェレプニン  セルゲイ・タネーエフ  母マリヤ
バレエ作曲家 ペーター・ヴィンター  ボリス・フィチンゴフ=シェーリ  ニコライ・チェレプニン  ヒダシュ・フリジェシュ  盛宗亮
正教会聖歌作曲家 アレクサンドル・チェレプニン  ニコライ・チェレプニン  アレクサンドル・グレチャニノフ  シュテファン・モクラーニャッツ  ステヴァン・フリスティッチ
フランスの正教徒 アレクサンドル・チェレプニン  イリア・メリア  ニコライ・チェレプニン  母マリヤ  パーヴェル・エフドキーモフ

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