創作・初演の経緯
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「岩 (ラフマニノフ)」の記事における「創作・初演の経緯」の解説
管弦楽曲としてはラフマニノフの最初期の作品の一つであり、一般に交響詩として扱われている。ラフマニノフは1893年の夏に友人のミハイル・スローノフの紹介でハルキウ近くのレベディンを訪れ、そこで2台のピアノのための組曲第1番などとともにこの《岩》を作曲した。 その後ラフマニノフが恩師のセルゲイ・タネーエフの自宅で敬愛するチャイコフスキーに会った際にこの作品を紹介すると、チャイコフスキーはこれを気に入り、初演を指揮することを請け負った。しかしその後チャイコフスキーが急逝したために、この約束は実現することはなかった。 初演は作曲者の21歳の誕生日に当たる1894年4月1日(当時ロシアで用いられていたユリウス暦では3月20日)にモスクワでのロシア音楽協会第9回交響楽演奏会で、モスクワ音楽院校長ワシーリー・サフォーノフの指揮により行われた。その翌年の1895年に作品はリムスキー=コルサコフに献呈された。
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創作・初演の経緯
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「交響的舞曲 (ラフマニノフ)」の記事における「創作・初演の経緯」の解説
1940年にニューヨークのロングアイランドで作曲された。作曲者自身が「何が起こったのか自分でもわからないが、おそらくこれが私の最後の煌きになるだろう」と述べたように、この作品がラフマニノフの「白鳥の歌」となった。 オーケストレーションに先立って、まず2台ピアノのための版が8月10日に完成された。この2台ピアノ版の初演はラフマニノフの自宅で開かれた私的な演奏会で、作曲者自身とウラディミール・ホロヴィッツの共演により行われた。この版には作品45aという作品番号が与えられている。 2台ピアノ版の完成後、ラフマニノフは指揮者のユージン・オーマンディに宛てた8月21日付の手紙の中で、新しい交響的作品を作曲中であること、そして完成後にそれをオーマンディと、当時オーマンディが音楽監督を務めていたフィラデルフィア管弦楽団に献呈したい旨を述べていた。この時点でラフマニノフは「幻想的舞曲集」として着想しており、各楽章に「真昼」、「黄昏」、「夜中」という標題を付すことも構想していた。 オーケストレーションは10月29日に完成し、各楽章の標題は破棄されて3つの楽章からなる『交響的舞曲』として発表された。初演は1941年1月3日にユージン・オーマンディ指揮、フィラデルフィア管弦楽団によって行われ、好評を以て迎えられた。
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