作品と影響力
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「バルトロメオ・トロンボンチーノ」の記事における「作品と影響力」の解説
波瀾万丈の常軌を逸した、おそらく罪深い生涯にもかかわらず、トロンボンチーノの多くの楽曲は、マドリガーレの前身として、フロットーラの軽やかでしなやかな形式をとっている。トロンボンチーノは、姓が示しているようにトロンボーン奏者であり、その能力ゆえに雇われることもあった。それなのに、厳密な意味での器楽曲は明らかに作曲しなかった(あるいはすべて散逸したのかもしれない)。いくつかの真摯な宗教曲も作曲している。17曲のラウダや、モテットとエレミアの哀歌を1曲ずつ残している。モテットと哀歌は、16世紀初頭のより保守的なポリフォニー様式を示して定旋律を利用し、多声的な部分をホモフォニックな部分(あるいは単旋律聖歌の引用部分)と交替させているものの、模倣を用いてはいない。トロンボンチーノのフロットーラは、作品数(全176曲)のうちでは段違いに数多く、歴史的に最も重要である。そして他の有名なフロットーラ作曲家、たとえばマルケット・カーラの作風よりも変幻自在で、当時の主流なフロットーラよりポリフォニックである。この意味において、トロンボンチーノのフロットーラはルネサンス・マドリガーレを予期させるものであり、実際マドリガーレの最初の曲集は、トロンボンチーノの最晩年に近い時期に出版されている(たとえばフィリップ・ヴェルドロの《マドリガーレ第1集 Primo libro di Madrigali》は1533年にヴェネツィアで出版された)。トロンボンチーノ後期のフロットーラと最初期のマドリガーレの違いは、音楽的な面より、曲付けされた詩の構成に見ることができる。 トロンボンチーノが曲付けした詩は、当時の最も有名な作家の手によるものばかりであった。ペトラルカやガレオット、サンナツァーロなどである。ミケランジェロの詩にさえ作曲し、1518年に出版された曲集の中で発表している。ヨーロッパの文化史において、当時これほど詩人と近しかった作曲家も稀であった。
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作品と影響力
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「ルートヴィヒ・ゼンフル」の記事における「作品と影響力」の解説
ゼンフルは、17世紀までドイツで人気と影響力のある作曲家であった。とりわけ旋律的な才能に恵まれ、その旋律線は暖かな叙情性を帯びている。作曲家としては折衷的であり、宗教曲においても世俗曲においても手馴れていたが、イザークやジョスカンなど、フランドル楽派の前世代が示した手本を慎重に模倣するにとどまり、同時代の新傾向には染まらなかった。 技術的に見てゼンフル作品は、非常に古めかしいところがあり、むしろ15世紀に流行った定旋律技法を用いるなどしている。とはいえ、ゼンフルの多用した並行3度や並行6度のパッセージは、(三和音のアルペッジョを多用しがちなドイツ民謡からも分かるように)ドイツ人にはなじみやすく、歌いやすいものだった。 ゼンフルの宗教曲は、ミサ曲やモテット、聖母マリアの夕べの祈り、マニフィカトなどがある。ラテン語の典礼文によるもののほかに、ごく僅かながら、プロイセン大公アルブレヒトのために、ドイツ語の典礼文や祈祷文による宗教曲も手懸けた。 ドイツ語の世俗歌曲もふんだんに作曲しており、この分野においては、イザークと、バイエルン宮廷における後輩ラッススの間をとりもつ役割を果たした。ゼンフルのリートは、性格において多様性に富んでおり、構成面で見ても、定旋律による簡素なものから、カノンやクォドリベットなど対位法的な力作までと様々である。
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作品と影響力
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「フィリップ・デ・モンテ」の記事における「作品と影響力」の解説
モンテは非常に多作な作曲家であり、宗教音楽と世俗音楽の両方を残した。すべて声楽曲である。40曲のミサ曲と、その他の約260曲の宗教曲(モテット、宗教マドリガーレ含む)がある。マドリガーレは34巻が出版され、曲数は1100曲以上にのぼるが、全部が現存しているわけではない。最初の出版は1554年、33歳のときだったが、1568年に47歳でハプスブルク家に仕えるようになるまで、ほとんど作曲しなかった。このため、大器晩成の感を与える。最後のマドリガーレ集は、1601年になって発表されたが、ルネサンスの巨匠が80代を迎えて送り出した稀有の例となっている。 様式的に言うと、モンテのマドリガーレは、初期の、テクストを表出するために頻繁に半音階を用いた非常に進歩的な作曲様式をとるものから、非常に単純化され、短い動機やホモフォニックなテクスチュアを際立たせた後期様式に至るまで、変化に富んでいる(それでもモンテの初期の半音階様式は、ラッススやマレンツィオほど実験的ではない)。保守的な様式から始めて、後半生に実験的になったモンテヴェルディとは逆に、急進的な初期作品から、統一のとれた単純な後期作品へというように、正反対の曲線を描いている。 当時モンテほどの名声を勝ち得た作曲家はいなかった。モンテの名はヨーロッパ中に広がり、楽譜は出版され、版を重ねて幅広く流通した。「物静かで無口で、少女のように控えめ」と評されたにもかかわらず、人脈は幅広く、ラッススやウィリアム・バードのような作曲家とも親交があった。モンテのマドリガーレは今なお演奏されている。
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作品と影響力
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ブルジョワは、『ジュネーヴ詩編集』の最大の功績者であり、その旋律は、イングランドの改革派教会や、北アメリカの清教徒の賛美歌の旋律の原型になった。ブルジョワによる原曲は、カルヴァンの厳命に応じて単旋律となっている。カルヴァンは、ルターとは対照的に、対位法やポリフォニーに否定的だったのである。もっともブルジョワは、ジュネーヴ詩篇に4声体で和声づけもほどこしたが、ただしあくまで「家庭で」歌い演奏すべきものとした。和声つきの詩篇唱は、多くがシラビックで和弦中心に曲付けされている。このような様式は、多くのプロテスタント教会において、今なおコラールや賛美歌の特色として受け継がれている。
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作品と影響力
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セルトンは8曲(現存数)のミサ曲のほかに、モテットや詩篇唱、シャンソン・スピリチュエル(イタリアのマドリガーレ・スピリトゥアーレと関連のある、世俗語による聖歌)、加えておびただしい数のシャンソンを遺した。セルトンの作曲様式は、どちらかといえば16世紀の作曲家の典型となっているが、大形式の作品、たとえばより長大なミサ曲(レクィエムなど)の非常に単純な楽章による組み立てには、常には配慮されており、楽章内部は緊張感と複雑さがいっそうきわだっている。その上セルトンは、ホモフォニーとポリフォニーの間でテクスチュアを変化させることに巧みであり、随時しばしば歌手の数や声域を変化させた。 セルトンのシャンソンは有名で、かつての軽快に踊るような4声体のテクスチュアから、慎重な曲づけと主情主義、より広い声域とより多くの声部数を特徴とする16世紀後半の作曲様式への変遷に、影響力があった。同時代のイタリアのマドリガーレとの相互影響は明白だが、セルトンのシャンソンは軽みや、フランス語そのもののリズムの特徴を保っている。 なお、セルトンのパロディ・ミサ曲には、当時のフランス民謡を定旋律とする《ミサ曲「アヴィニョンの橋の上で」Messe « Sus le pont d’Avignon » 》を作曲したが、原曲はこんにち知られている同名の民謡の旋律とは異なっている。
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作品と影響力
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「オラーツィオ・ヴェッキ」の記事における「作品と影響力」の解説
ヴェッキはマドリガルの作曲家として名高いが、なかでも「マドリガル・コメディ」と呼ばれる新たな楽種のとりくみで知られている。これは16世紀末の、軽快で劇的、剽軽な娯楽音楽のことであり、一般的にはオペラの前身と言われているが、内容に即して言うなら、オペレッタの母胎と見なし得るものである。 その他の出版作品に、いくつかの『カンツォネッタ集』(カンツォネッタはヴィッラネッラとマドリガーレの中間形態)や、(割に数少ないとはいえ)より本格的なマドリガーレのほか、ヴェネツィア楽派の影響のもとに複合唱の技法を取り入れた宗教曲がある。宗教曲では、おそらくジョヴァンニ・ガブリエーリの影響のもとに、2拍子の部分と3拍子の部分の明確な交替を好んでいる。
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作品と影響力
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「ジョゼッフォ・ツァルリーノ」の記事における「作品と影響力」の解説
かなりの多作家であり、モテットは洗練された手腕とカノンや対位法の熟練を示しているものの、もっぱら注目されているのは理論家としての著作である。 中全音律について記述した理論家としてはピエトロ・アーロンが有名であるが、ツァルリーノは1558年の著書「ハルモニア教程」(Le istitutioni harmoniche) のなかで2/7コンマの中全音律を初めて数学的に明確な用語によって記述している。さらに1571年には純正長三度を持つ1/4コンマ中全音律も記述している。1571年の「ハルモニアの証明」(Dimonstrationi harmoniche) では、旋法の番号付けを変更し、ハ音およびそれを主音とするイオニア旋法を強調し、それによって長調・短調の音階と調性に基づいた和声とメロディーのシステムに近づいていくことになる。 ツァルリーノは和声学において、あらゆる音程の中で3度の音程が最も重要であると考えた最初の人物とされる。彼が純正律を擁護したのは、ピタゴラス音律において非純正音程がしばしば現れることに注目したからであり、12音からなる音階に現れる各々の音程を可能な限り純正に近づけようとした。また、彼は古来より知られた対位法における平行5度、平行8度の禁則を機能和声的に説明しようとした最初の人物でもある。 ツァルリーノの著作は、主にフランチェスコ・フランチェスキによって出版され、16世紀末にヨーロッパ中に流布した。翻訳や註釈版は、フランスやドイツではお馴染みで、オランダではスウェーリンクの門人たちに受容された。したがってツァルリーノの影響力は、次世代の初期バロック音楽の作曲家にまで及んでいたと見ることができる。 ツァルリーノの作品は同世代の作曲家に比べると、音楽語法においてむしろ保守的である。マドリガーレでさえ、当時他の作曲家たちがこぞって用いたホモフォニックなテクスチュアを避け、モテットと同じ手法で通模倣様式に依拠している。作品の出版は1549年から1567年まで行われ、(主に5声か6声のための)41曲のモテットのほか、13の世俗曲(4声か5声のためのマドリガーレなど)が含まれている。
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作品と影響力
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「トマゾ・アルビノーニ」の記事における「作品と影響力」の解説
アルビノーニは50曲ほどのオペラを作曲し、そのうち20曲が1723年から1740年にかけて上演されたが、こんにちでは器楽曲、とりわけオーボエ協奏曲が最も有名である。 アルビノーニの器楽曲は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが非常に関心を持っていた。バッハは、アルビノーニの主題によるフーガを少なくとも2曲遺しており、しかも、しばしば学生の和声法の実習において、アルビノーニのバス課題をよく利用した。
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作品と影響力
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トマス・ルポは、ヴァイオル・コンソートの楽曲の発展における主要人物のひとりであった。しかもルポは、宗教曲の重要な作曲家でもあった。おそらく宮廷ヴァイオリン楽団のためにかなりの量の作品を提供したはずだが、これらは1曲も現存していない。しかしながら当時の作者不詳のヴァイオリン曲の多くが、ルポ作品ではないかと仮定されてきた。 ルポが作曲したヴァイオル曲のほとんどが、2声部から6声部の作品で、皇太子時代のチャールズ1世に御所で仕えていた時期に遡る。作品の多くは対位法的で、とりわけ5声や6声の作品は、テクスチュアがイタリアのマドリガーレのよすがを感じさせる。ルポはとりわけ、1590年代にイングランドで受容された、ルカ・マレンツィオの作曲様式の模倣者であった。 ルポの3声や4声のコンソート音楽はより実験的であり、バスやトレブルを3声部かさねたり、コンソート音楽にオルガン伴奏を用いるなど、当時の他の作曲家には見られないような編成をしばしば用いている。 ルポによる器楽曲の例として、ファンタジア、パヴァーヌ、ガリヤルド、アルマンドがある。ファンタジアのいくつかは、イタリア語マドリガーレを直截に編曲したものとなっている。
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作品と影響力
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「アントワーヌ・ド・ベルトラン」の記事における「作品と影響力」の解説
ベルトランは3巻の大判のシャンソン集を出版し、晩年までに宗教曲集も出版した。世俗歌曲では、全部で84のシャンソンと1曲のイタリア語のマドリガーレが、またラテン語による宗教曲では10曲のイムヌスと3曲のモテットのほか、14のカンティクムが現存する。作品のほとんどは無伴奏の四部合唱のために作曲されている。ベルトランは『シャンソン集 第1巻』(1576年)の序文において、かなり初期のシャンソンも含めて曲集は全部で5巻か6巻になるはずだと触れ込んでいる。このことから、かなりの作品が未出版のまま残されたことが察せられよう。 シャンソン集の最初の2巻は四声のための曲集で、男女の逢瀬がまずい結果になるまでを描いたピエール・ド・ロンサールの『恋 Amours 』に作曲されている。和声法に関してベルトランの音楽語法は大胆で、ニコラ・ヴィチェンティーノの実験精神に近づいている。つまり微分音を用いて、いくつかの楽曲の表現手段としたのである。その極端な例が、《私はこんなに愛されて Je suis tellement amoureux 》の最後の7小節である。ここでベルトランは徹底して全音階的な書法を避け、「死」という言葉の部分の表現を除いて、ひたすら半音階的な音階進行と、異名同音の読み替えを続けている。しかしながら、1587年に死後出版された《私はこんなに愛されて》の異版では、四分音を避けた書き換えがなされた。微分音程があまりに歌い辛かったからである。ベルトランは序文において、数学的な精密さを避けたので、この曲がもし五感に訴えることができるならば、一番の会心の作となると述べている。 ベルトランはイタリア語のマドリガーレを1曲しか残していないが、明らかにシャンソンに影響された軽快な作風をとっていて、実質的にはヴィッラネッラになっている。だが、イタリア的な関心事(音画技法、異なるテクスチュアや拍子の対比と切り替え)にもきめ細かな配慮がなされている。 ベルトランの宗教曲と、霊的な詩による《宗教的エール集》や《キリスト教のソネット sonets chrestiens 》のような歌曲集の出版譜3点は、いずれも様式的に見れば同時代のユグノーの作曲家の詩篇唱の作風と密接な関係がある。旋律的にも和声的にも素朴で、全体的にホモフォニックなテクスチュアが保たれている。旋律はたいていグレゴリオ聖歌に基づいている。ベルトランの霊的な作品が、ベルトランより10年早くサン・バルテルミの虐殺でカトリック側に殺戮された、ユグノーのクロード・グディメルの宗教曲によく似ているというのは、興味深い偶然である。
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