17世紀まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 03:21 UTC 版)
フロートーの統治権のうちラーフェンスベルク家が所有した部分はユーリヒ=クレーフェ=ベルク家に移譲された。16世紀半ば、ユーリヒ=クレーフェ=ベルク公ヴィルヘルム裕福公が土地台帳作成の作成を命じた。この「1566年のラーフェンスベルク伯領の土地台帳」は、当時のアムト・フロートーを含む詳細な記録である。現存するこの文書には、農場の数、人口やその管理、納税先、所有者が記録されている。 その後ヴェーレンドルフ代官区とフロトー代官区からアムト・フロートーが形成された。フロートー代官区の全部で 225 の農場のうち、エクスター教会区には農村村落のエクスター、シュヴァルツェンモーアと、教会上はヘルフォルトのベルク教会に属すゾルターヴィッシュを合わせて 91 の農場があった。レーメ教会区(87 農場)には農村村落レーメ、ニーダーベックゼン、オーバーベックゼン、ベッシンゲン、バッベンハウゼン、レールゼンが属した。フロートーには 47 の農場があった。 ヴェーレンドルフ代官区には、ヴァールドルフ教会区の 136 農場が属した。農村村落のボンネベルク、ブロックハーゲン、マースベッケ、ニーダーホルヴィーゼン、オーバーホルヴィーゼン、ニーンハーゲンおよびヴァールドルフを併せたこの地域は、ほとんど変更なく現在のヴァールドルフ市区に対応する。
※この「17世紀まで」の解説は、「フロートー」の解説の一部です。
「17世紀まで」を含む「フロートー」の記事については、「フロートー」の概要を参照ください。
17世紀まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/05 06:43 UTC 版)
アプツグミュントはおそらく、エルヴァンゲンによって建設された。この地名はライン川とコッハー川とが合流する地(Gemunden = 合流点)であることに由来し、エルヴァンゲン修道院が所有していた(Abt = 大修道院長であり、他の合流地点の集落と区別するためにつけられた)。このことから、アプツグミュントは高い確率で7世紀以降に建設されたと推定される。詳細な時期は不明である。 エルヴァンゲン修道院は、南西の森林地域の安全を図るためにこの集落を建設した。1136年のエルヴァンゲン修道院の土地目録には Gemunden という名前で記録されている。13世紀に、後に帝国自由都市となるグミュントとの混同を避けるために Abtzgemunde と改められた。この名称は1251年のコンラート4世の文書に初めて現れる。 1200年頃に建設された後期ロマネスク様式による教区教会の塔の1階部分は、もっと早い時期に定住がなされていたことを示している。 シェンケン・フォン・リムプルク家から支配権を護るために、アプツグミュント近郊にヴェルシュタイン城が建設された。この城の所有者は頻繁に交替したが、レーエンの高権はエルヴァンゲン修道参事会諸侯が保持した。管理を行うために代官が設けられ、ヴェルシュタイン城に赴任した。ホイヒリンゲン、アプツグミュント、ヴェルシュタインはエルヴァンゲンのアムト・ホイヒトリンゲンを形成し、アプツグミュントがその役人の所在地となった。 シュヴェービッシュ・ハルからウンターグレーニンゲンに至るコッハー川の谷では、宗教改革家ヨハネス・ブレンツ(ドイツ語版、英語版)によって宗教改革がなされ、福音主義化したが、アプツグミュントはエルヴァンゲン修道院の支配下にあったため宗教改革の時代にもカトリックに留まった。 修道参事会諸侯は17世紀に製鉄所を創設した。アプツグミュントには1611年にアルトシュミーデに高炉が設けられ、後に鍛造所が建設された。製鉄は三十年戦争で衰退したが、1667年には鍛造所が再建された。この作業所は1699年にアルトシュミーデからノイシュミーデに移された。世俗化によりヴュルテンベルクの所有となり、後にシュヴァーベン精錬所ヴァッサーアルフィンゲンに発展解消された。
※この「17世紀まで」の解説は、「アプツグミュント」の解説の一部です。
「17世紀まで」を含む「アプツグミュント」の記事については、「アプツグミュント」の概要を参照ください。
- 17世紀までのページへのリンク